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ことのはスケッチ(438) 2015年(平成27年)6月
『天田愚庵』D 年譜
△明治十七年(一八八四年)愚庵 三十一歳
二月二十五日 全国博徒大検挙にあい、次郎長は静岡井之上宮監獄に入獄。
四月 愚庵の養子名、山本鉄眉著「東海遊侠伝」、興論社より刊行される。
この頃、富士裾野開墾事業は不振につき閉鎖。
十一月 鉄舟の世話により、愚庵は有栖川宮家の家臣となる。
次郎長の山本家を離籍。旧姓“天田”に復す。
上京、肺病再発。鉄舟、丸山作楽等の世話になる。
丸山作楽は、国事犯の罪により、明治四年、長崎獄中に居た。ここで愚庵と知り合い、歌を教授される。
丸山作楽の歌
たまきはる幾万代も死にかわり生きかえりつつ事を遂けはや
取るかぢの音たかだかに霰ふる鹿島の崎を漕きたむ小舟
あら汐のこよろき磯よ雲居なす大嶋のねろにさ霧立つ見ゆ愚庵の歌
音にのみ聞きし鳴門の渦潮の渦まく瀬をもこき渡り見つ
漕く舟を呼ふは誰か子そ鳴門崎苅藻の島の海人小女かも
父母と見れば夢なり夢にだに其面影よ消ずも有なん
花薄招く方こそ床しけれ尋ぬる人の跡もなければ
△明治十八年(一八八五年)愚庵 三十二歳
有栖川宮家の家令に従い、下総猫村の開墾事業の監督に当たった。
△明治十九年(一八八六年) 愚庵 三十三歳。
二月 有栖川宮家を辞し、大阪内外新報社へ幹事として入社。
新聞社の仕事は次々と、北の新地や祇園に通う日が繁く、茶屋酒に酔い痴れる。言動が荒々しくなった。
日曜ごとに、山岡鉄舟の紹介により京都林丘寺の由利滴水禅師六十五歳に参禅する。
△明治二十年(一八八七年) 愚庵 三十四歳。
生あるものは必ず死ぬ。やがて自分にも訪れる死である。滴水禅師の許で、出家して仏門に入ろう。父母の菩提のためにも。
四月八日(釈迦の誕生日)京都林丘寺において滴水禅師の剃度を受け、鉄眼と称す。
滴水禅師が与えた偈
打破八識 八識を打破して
始称丈夫 始めて丈夫と称す
莫認小智 小智を認むるなかれ
須至大愚 すべからく大愚に至るべし
八識とは、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、未那識、阿頼耶識、ここに愚庵と名乗る。
「頭おろしける項」
墨染の麻の衣手朝な朝な手向くる花の霧に濡れつつ
鶯の声ばかりして山寺の春はしずけきものにぞありける
三十四歳の出家だった。
与謝野礼れいごん厳(鉄幹の父)
鉄眼の髪をおろして林丘寺に入りし時
入りて見よ心のおくに何かあらん山は山なる水や水なる
直土に藁解き敷きて寝ぬること常と思えば悲しきものを
いとほしき妻と子らとに食はすへき飯もなきまで貧しきや何ぞ
男子はも国を嘆けど若草の妻の嘆くは家の子のため
愚庵の歌
中山の与謝野のおぢはいたつきてわれより先にやがて死ぬべし
魂のみそ帰りきませる秋たたば立ち帰らむと云ひし君はも
秋たたば見むと契りしその萩の露より先に消ぬるはかなさ
△明治二十一年(一八八八年) 愚庵 三十五歳。
初春、陸羯南、愚庵出家後はじめて来訪。
七月十九日 身を清め白衣に着替え山岡鉄舟坐禅のまま大往生。行年五十三歳。谷中全生庵に埋葬。
京都相国寺に於て、大法会を行なう。
△明治二十二年(一八八九年)
△明治二十三年(一八九○年) 愚庵 三十七歳。
愚庵は、山岡鉄舟の三回忌法要に出席のため滴水禅師のお伴をして上京。
陸羯南は、新聞「日本」を発刊し、東都に筆名を高めていた。
当代漢詩の第一人者といわれた国分青高焉u日本」の社員として活躍。
陸羯南へ、愚庵自叙伝ともいうべき「血写経」の原稿を送る。
丸山作楽、貴族院議員となる。
愚庵は、このころ陸羯南宅で二十三歳の正岡子規と相識った。
△明治二十四年(一八九一年) 愚庵 三十八歳。
秋、北海道に大漁場をもつ竹馬の友、江ごう政敏の出資を得て、滴水禅師の許可を得、京都清水産寧坂に、四畳半、二畳の庵を起工。
上野、青森間の鉄道開通。
△明治二十五年(一八九二年)愚庵 三十九歳。
春、草庵完成。愚庵と号す。
身回の世話を、伊藤源吉(人形師、三寧)夫妻に託す。
七月 上京し丸山作楽方に滞在。
十一月十六日 正岡子規が高浜虚子を伴って愚庵を尋ねた。子規の手土産の柚子味噌を舐めながら、愚庵、虚子、子規は夜遅くまで語り合った。
子規はこの出来事を「獺祭書屋俳話」に記し、新聞日本に発表。
子規は、松山に住む母と妹を迎えに往路、復路に愚庵を訪ねた。
子規は、新聞日本に入社。
子規、ベースボールに熱中。多くの用語を作りだした。
つづく
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