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随筆> ことのはスケッチ(439)『天田愚庵』E 年譜
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ことのはスケッチ(439) 2015年(平成27年)7月
『天田愚庵』E 年譜
△明治二十六年(一八九三年) 愚庵 四十歳
二月、姫路に至り、書写山に登る。
春、清水港の友人中井俊之助と伊豆下田より七嶋に航せんとして果さず、帰庵。
六月十二日、清水次郎長没、行年七十四歳。東京に子規を見舞い、北海道旅行中であった。
清水港に立ち寄り、次郎長の追善供養を行う。
九月二十日、西国巡礼に出発。三十三ケ所の霊場を巡る。
「新聞日本」が広く世に伝えた。
十月十九日。天気良し、夜明けて堂を出、鐘楼より谷を隔て滝を望めば、自らすがすがしい。
底つ巌根つき貫きて普陀落や那落も摧け那智の大滝
愚庵、高野山奥の院で見た芭蕉の句、
父母のしきしに恋し雉の声
愚庵の和歌
我袖も濡れこそまされたらちねを恋い渡す子がかいの雫に
真幸くて在せる父母御仏の恵みの末にあわざらめやも
燈照無明路(ともしびは照ず無用の路)
雲薫不断香(雲は薫ず不断の香)
高僧長入定(高僧長に入定したまう)
泉石有霊光(泉石霊光有り)
十二月二十一日、帰庵。
△△明治二十七年(一八九四年)愚庵四十一歳。
二月・三月上京し、江政敏や羯南、中村真金宅に滞在する。
「巡礼日記」を日本新聞社で印刷刊行。
六月、再上京、江敏宅に滞在する。
七月、日清戦争はじまる。
九月、腎臓病にかかり、江家の看護を受ける。
十二月痼疾再発。一時重体。須磨に療養。
△明治二十八年(一八九五年)愚庵四十二歳。
須磨で療養三ヶ月、ようやく回復、帰庵。
七月下旬より夏中、但馬国城崎温泉で湯治。九月下旬帰庵。
中秋、漢学者で詩人の長尾雨山と琵琶湖竹生島に明月を賞し、越の桂湖村と大和に遊ぶ。
冬、大阪辺りを旅し、十二月中旬、帰庵。
恩師落合直亮没。行年六十八歳。
夏目漱石、松山中学校に赴任。
△明治二十九年(一八九六年)愚庵 四十三歳。
一月上京し子規の病床を訪う。
二月 熱海に遊ぶ。
三月、種竹山人、竹隠居士と月ヶ瀬にて観梅。
庵室に、二階に三畳一室を増築し、二休楼と称す。
心おきなく俳句や短歌、お茶の話をするため、庭に石など敷き、十二勝と名付けた。
白雲の夕居る山のその巌の苔むすしたに我は棲まむぞ
逝く年は惜しけくもなし春待ちて花をし見まし老ぬともよし
愛子我巡り逢へりと父母のその手を執れは夢はさめにき
せこやこひし勢子や恋しとおもふより夢に入りしかあはれ我妹子
五月、鳴門観濤。帰途神所で痼疾再発、喀血。
友人桜井一久の介抱を受け快復。帰庵、静養。
十二月八日、寒川鼠骨来訪。
△明治三十年(一八九七年)愚庵 四十四歳。
三月初め、上京。
四月、帰庵。
七月、奈良に遊ぶ。
初夏、越の桂湖村来訪。
十月上旬まで滞在。愚庵に和歌の指導を行なう。
湖村帰京の折、子規への土産に柿をもたせる。
子規
柿熟す愚庵に猿も弟子もなし
つりもねの蔕へたのところが渋かりき
みほとけにそなえし柿のあまりつらん我にたびし十あまりいつつ
籠にもりて柿おくり来ぬふるさとの高尾の山は紅葉そめけん
おろからふ庵のあるしかあれにたひし柿のうまさのわすれえなくに
歌をそしり人をののしる文を見ば猶ながらへて世にありと思へ
折にふれて思いそいずる君が庵の竹安けきか釜恙なきか
愚庵
命全またく長く垂らさまく天地に祈れもろもろ魔詞般若波羅密
雪の下に竹は伏すとも冬籠り春たたむ日は起きたたむ日そ
俳誌「ホトトギス」松山で創刊。
△明治三十一年(一八九八年)愚庵 四十五歳。
宇治に遊ぶも健康すぐれず。
三月二十二日、福本日南来訪。
秋、羯南、桂湖村来遊。寒月鼠骨来合わす。
師滴水の病状悪化(肋膜炎から肺炎合併症)
延寿祈祷の法会に列す。
子規、最初の歌会を子規庵で開く。
更衣出べくとして我約ありし碧悟桐
鼓けどもゝ水鶏許されず虚 子
竹林に昼の月見る涼しさよ把 栗
涼風や愚庵の門は破れたり子 規
我庵の苔の細道誰待つと棗は落ちし玉敷くか如愚 庵
長い棗円い棗も熟しけり碧悟桐
熟したる棗の木に径を為す虚 子
鉄鉢に棗盛りたる僧奇なり把 栗
行脚より帰れば棗熟したり子 規
いさ我もいでてうたはむ此夜らは月人男来て舞ふらむそ愚 庵
物干に月一痕の夜半かな碧悟桐
犢鼻褌(ふんどし)を干す物干の月見かな虚 子
松はしぐれ月山角に出でんとす把 栗
嘯けば月あらはるる山の上子 規
斧の柄の朽ちにしことの談りこと継ぐ人は語り継ぐへし愚 庵
寒夜一棋石盤をうって鳴る碧悟桐
石の上に春帝の駕の朽ちており虚 子
閑古鳥僧石に詩を題し去る把 栗
野狐死して尾花枯れたり石一つ子 規
愚庵十二勝を唱和する。
愚庵禅師御もと子 規
御仏に供へあまりの柿十五
「ホトトギス」東京で発刊。
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