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随筆> ことのはスケッチ(440)『天田愚庵』F 年譜
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ことのはスケッチ(440) 2015年(平成27年)8月
『天田愚庵』F 年譜
△明治三十二年(一八九九年) 愚庵 四十六歳
山口誓子全集中、「愚庵の徳利」より。祖母が家に愚庵さんの徳利があると。それは口が細く、ふっくらと
した徳利。口に近く把手がついていた。全体は白地、藍で万葉仮名の歌が書かれ、高さ六十寸五分、胴囲が九寸四分。たっぷり三合の酒が入る。
山口誓子の祖父、脇田氷山へ、愚庵からの贈り物であり、一緒に酒盛りをされたことでしょう。
「愚庵の徳利」に書かれている歌。
@羽雁鳴物戸葉家門琴菜櫛咲串耳勿飲馬鮭遠夢
(はかりなきものとはいえどことさへぐしえみしにのますなうまさけをゆめ)
A酔杉葉嬬也投噛木綿呉爾古農人壺乎蚤莫越夢
(よひすきはつまやなげかむゆふぐれにこのひとつぼをのみこすなゆめ)
@酒は量なしとはいえ、ものを言うのも笑うのも苦しいまでに飲み過すなかれ
A酔い過ぎは妻が嘆くだろう、晩酌にこの一壺以上飲みこすなかれ
古事記中巻に載る「応神天皇御製歌」。
須須許理(すすこり)が醸(か)みし御酒(みき)にわれゑひけり事和酒咲酒(ことなぐしえぐし)にわれゑひにけり
「愚庵詠草」に、明治三十年夏、古事記の「応神天皇御製を敬誦した愚庵の和歌。
すめらぎは神にしませばすゝこりがかみし御酒に酔ひませりけむ
愚庵の徳利の、万葉仮名の和歌に至る。
愚庵全集」「観人節酒」
三合面堪醺 一壺神自暢
顛然乃乱時 勿道酒無量
量を過して「乃乱」しないよう、酒の節すべきことを勧めている。
愚庵は、いつの頃からか酒を断っていた。大阪内外新報社当時はたいそう酒を飲んでいた。
山岡鉄舟、身の丈六尺二寸(約百九十センチ)体重二十八貫(百五キロ)。斗酒なお辞することがなかったという。愚庵も相手をしたことだろう。
一月二十日、滴水禅師示寂。行年七十八歳。
春。吉野に遊び。十日間逗留。
吉野観桜短歌五十首の連作を詠む。
奈良坂経へ たふ多武が嶺越えて三吉野の吉野の山の花見にそ来し
見む人は早も来て見よみ吉野の花の盛は今日明日と知れ
鹿自物(しんじもの)膝折りふせて御陵の御前に居れば花そ散り来る。
川上の舟にふ生の祝はふりか振る鈴の音のかそけく聞えつるかも
八月、愚庵に万葉の魂を教授した丸山作楽没。六十歳。
△明治三十三年(一九○○年)愚庵四十九歳。
早春、明治天皇御陵地選定のため入洛した品川弥二郎と共に、伏見桃山に観梅。
二月二十六日。帰京後、品川急逝。五十九歳。
伏見梅林。品川弥二郎と観梅の短歌。
梅の花散りもはてぬに見し人の野辺のけふりと消えにけるはや
かさねきて独り眺めつ梅の花昨日は君と見つつめてしを
六月。愚庵自ら設計。工事監督に当り、伏見桃山に新庵を起工。
七月末、新庵竣工し、伏見桃山南麓、指し げ月つ の杜に移り住む。
打日指京(うちひさすみやこ)のうちをことしげみ伏水の里に我は来にけり
三吉野の吉野若杉丸木柱にきりてつくるこの庵
斧(おの)とりて急げ工等(たくみら)久方の雨降らぬ間につくれ此庵。
甍(いらか)には黄金をふきし桃山の高城(たかき)の跡にいほりす我は
工等(たくみら)よ今日の日よりを徒(あだ)に過くしていつか棟上げはせよ
よき月の今日のよき日を桃山の我庵つくる今日のよき日を
「桃山結盧歌」
武夫(もののふ)の八十氏川(やそうじがわ)の流には流れもつきぬ名そ流れたる
遠山は葛城の山志賀の山生駒の山のいただきも見ゆ
近山は宇治の高山短山小幡(みじかやまこわた)笠取八幡山崎
青丹よし奈良の都の春日野の春日の山も霞みてぞ見ゆ
法兄、峨山没(天竜寺再建)哀悼歌。
遅るるを思ひ知らぬは我背子がほりにし松を遣らて悔しも
形見にと思ひしものを思ひきや君か手向けに今日植えむとは
この年、知友、三遊亭円朝没。
夏目漱石、英国留学。
野口英世、渡米。
津田梅子、津田塾大開設。
△明治三十四年(一九○一年)愚庵四十八歳。
健康思わしからず、五月五日、遺書を認む。
七月二十日、羯南、中華・朝鮮漫遊のため西下の途次来訪。
九月上旬、国分青漉訪し、暫く滞在。
「明星」を中心に恋愛詩歌が流行。
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