ことのはスケッチ(442) 2015年(平成27年)10月『天田愚庵』H 年譜
△明治三十七年(一九〇四年)愚庵五十一歳 政府人仇とはかりていつまでか君をあざむく民を欺あざむく 位のみ人のつかさと登りつめことわり暗き大臣等はも 久米の子よいのち惜しくば太刀を解け黄金欲しくば商人(あきうど)となれ 頭には雪もみちたり年普(まね)く政府にをれば蔵も満ちたり 愛子我巡り逢へりと父母のその手を執と れば夢はさめにき ちちのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白く成りにき かぞふれば我も老いたり母そはの母の年より四年老いたり 経もあり仏もあれば我もありこころのおくに亡(なき)人もあり 十三日夜、空漠たる寂寥感。自作の詩歌を揮豪、半紙約三百枚。知友に頒るため。 一、金銀米穀に不足なければ今日より一切贈物を受け不申候 一、御見舞の御方は一面の後直ちに御引取下被下候が第一の御心切と存候 一、死後は遁世者の儀ニ付葬式を為すを許さず 一、又塔を立つるを得ず 一、学術に補益ありとせば解剖するも不妨 一、遺骸は二三の法弟にて荼?せしめ、近親と雖も埋葬するを許さず 右の箇条何人も容喙するを得ず 大和田に島もあらなくに梶緒絶え漂ふ舟の行方知らずも 一東の韻に時雨るる愚庵かな 青崖と愚庵芭蕉と蘇鉄哉(愚庵を詠んだ最後の句) 父母と見れば夢なり夢にだに其面影よ消えずもあらなん 花薄(はなすすき)招くかたこそ床しけれ尋ねる人の跡もなければ 我袖も濡こそまされたらちねを恋い渡す子がかいの雫に 真幸くて在せ父母御仏の恵みの末にあはさらめやも 神漏伎(かむろぎ)のかしこくはあれど千五百人の罪も消えなんしらゆきのごと 旅僧の心やすけや冬木立 「三十余三の御山の御仏に仕へまつらく父母のために。衆人のために」「三十余二の相ふだらくの光りあまねく度し給はな」 巡礼行中、二度も喀血をしたものの、脚力のみで遍歴した。 春されは君を尋ねて須磨の浦朧月夜に相語らはむ 独り見れど飽かむ月夜をさす竹の君と二人し見らくはよけむ 愛子(まなご)我巡り逢へりと父母のその手を執れば夢はさめにき 夢ならば継ぎて見ましと我思(わがも)へど音(ね)のみ泣かれていぬがてぬかも 石の中にかき籠るともかぞいろの通ふ夢路の絶えむと思へや 黒髪のしろくなるまで年を経て再び君に逢はむと思(も)へや 今日君に巡り逢ふごと父母にめぐり逢はなむ君に逢ふ如(こと) 鶯の声ばかりして山寺の春はしづけきものぞありける 黒染の麻の衣の朝な朝な手向る花の露に濡れつつ 法の声日にけに聞けばいと楽し仏さびすと人はいふとも み仏に仕へむためと丈夫(ますらお)が弓谷にかへて握る数珠の緒 数珠の緒の玉のあな玉左手(ゆんで)の手首にまけば音のさらさら 百あまり八(やつ)の障を玉にぬきて手ならす我に障りあらめやも |
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