ことのはスケッチ(444) 2015年(平成27年)12月

『天田愚庵』つづき@

 愚庵、彼の希有な生涯を追いかけ、一年が過ぎた。
 天照大神が、霊石山へ行宮された時の、二千年以上の時を経た和歌。
あしひきの やまへはゆかじ しらかしの すえもたははに ゆきのふれしば
 短歌、俳句がどのように繋がれてきて、繋いでゆくか。しっかり見定めようと思う。
 戊辰の役が起こり、薩長が京の都を出発する、三條大橋で、太田垣蓮月尼は、彼女の心を託した和歌を真紅の短冊に書き、西郷隆盛に手渡した。
あだみかた かつもまくるも 哀れなり 同じ御国の 人とおもへば(味方にも仇にも、同じ哀れを…)
隆盛は、これを受け、幕府と談判を尽くし、鉄舟らを動かし…徳川幕府は、無血のまま江戸城を明け渡すこととなった。
 十五才で戊辰の役に直面し、父母妹を亡くした愚庵。
 戊辰の役後、東京駿河台のニコライ神学校に入学、ここでの人脈から、山岡鉄舟の門下となる。
 清国談判問題により、愚庵は警視庁に拘引され、数ヶ月拘留される。その獄舎で、万葉調歌人、丸山作楽と出合い、和歌を教わる。
 古郷の城址を訪ね、愚庵はじめての歌を詠んだ。
吹く風は、問へど答へず 菜の花の 何処やもとの 住家なるらむ
 法律学校で国分青崖と同級生の陸羯南を知る。
 鉄舟は清水次郎長に愚庵を託した。
 富士裾野開墾、次郎長の伝記を書く。
 陸羯南、国分青崖等、富士山に登ったことを知り、愚庵も富士山頂に立つ。富士山頂にて歌を詠んだ。
ふじがねに のぼりて四方の 国みるも まづふるさとの 空をたづねて
 このところ詩吟を習得中。今、習っているのは
短歌 晴れてよし          山岡鉄舟作
晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変らざりけり
 目で活字を見ることにも充分余韻を感じているつもりだった。けれど活字が音楽となり、自身の身体からの声で吟ずることにより、今までの平面が、大きく広がる立体となった。鉄舟が、愚庵が、詠まれた状況に、私も一緒させていただいているような…泣きだしてしまいそう。
つづく

 
 

 


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