ことのはスケッチ(457) 2017年(平成29年)3月

「岡本癖三酔」

 外国に住んで、時に日本に帰ってくる…ということをしていた頃。父が「癖三酔」からの父宛の俳句と俳画の葉書を三百枚程はあったか、父も同じ数程は「癖三酔」に送っているのだという。
 父の記憶から、私は「麻布」「善福寺」辺りを探し巡ったけれど、何も見当たらなかった。そして、また外国に行ってしまって居たりして…そのままになっていた。
今、日本に居て、新聞に「さいたま文学館。虚子・かな女・癖三酔・書と画で楽しむ俳句」を見つけた。
すぐ、高崎線の桶川の「さいたま文学館」へゆく。父との日々が甦る。

 岡本癖三酔、高崎生まれ、子規に師事。「三田俳句会」を興し、虚子鍛錬句会に参加。俳画を良くし、「ホトトギス」の俳句の選者を務めた。
 神経衰弱と糖尿病のため、三田の松山病院に十五年以上の入院が続いていた。
 御津磯夫(今泉忠男)は、松山病院に、研修医をして、病院内で句会などをし、「癖三酔」と知り合う。
 磯夫は、父親の病院を継ぐため愛知県に帰ると、この二人の毎日に及ぶ「俳画・俳句」「短歌・写生画」の葉書の交換が幾年も続いた。父の書き残したものを、そのまま載せる。

「私の岡本癖三酔について」 御津磯夫(みといそお)

 癖三酔は俳号であって、実名は岡本廉太郎である。東京麻布に住んでいた。早くより子規につき俳句をよくし、癖三酔句集もあるが、新傾向に転じ、碧悟桐、井泉水等と共にした。
 私が医者になり、東京三田の松山病院の院長が大学の内科の教授であった故に、助手として勤務し、この病院の常連の入院患者、癖三酔との出会いとなった。昭和二年の事である。
 癖三酔は風をおそれる性癖があって、常に松山病院の病室を専用しており、風が強い日、台風が近づく予報にも直ちに入院してきた。病室のベッドに横たわることはなく、病棟の廊下などを歩いていた。時には、事務員や医局員などを集めて句会を催したりした。
 ある日、私もその句会へ出席して投句した。「夕百舌鳥(ゆうもず)の高音に書(ふみ)を閉じにけり」という一句であったが、癖三酔は、「これは良い。俺はこの一句によって作者を一生忘れない」と激賞してくれた。それが私と癖三酔とを結びつけて、その一生の終りまで俳句と俳画とのハガキと、私の短歌と写生画とのハガキの交換が始まったのであった。
 私は、やがて田舎に帰って父を継ぎ、開業医の生活をしながらも、一日の往診など終って夜のひととき、癖三酔宛への画ハガキを書くのであった。そして、麻布から、毎日のように俳画俳句の画ハガキが届けられるので、私も、それに合わせて必ず、その日に返事をするのだった。画ハガキは百枚、二百枚、三百枚とたまっていった。
 時には、条幅や画帳なども頂いている。私の画いたものも、癖三酔のもとに届いている。今日も、私の部屋には癖三酔の条幅がかかげてあり、「むしの音身をめぐる闇に目閉ぢて」と賛のある、大きい黄色の鶏頭の花である。
 私は六十年、三河アララギという短歌誌を主宰し、アララギの写生の短歌を作りつづけてきて、画も実物を見ての写生画だけしか描けないので、それを実行してのハガキ画であった。
 癖三酔も「根本はやはり写生ではなければ」ということを、私には言っていた。写生した木の葉などもこまかく描いて届けられたりした。私の短歌にも、癖三酔の影響があったことを思っている。

 
 

 


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