ことのはスケッチ (328) 2006年4月

引馬野

2006年を迎えるにあたり、どんな年賀状にしょうか、「いつもの裸婦クロッキーがいいかな、葦叢に分け入って描いたの、正月料理用のユリ根にしょうか・・・」思案のとき、一通のメールが届いた。

高校の同級生、榊原康彦氏からだった。前々から、「三河の古代史の謎解き」をしていると聞えていたし、折々話してもいた「本にまとめるといいね」などと。
『全面的に支援態勢の出版社がみつかり、本の活字の印刷も終え、ベストセラーを目指しての"チラシ"まで出来あがり、本の発売日も決まってしまった』。『表紙だけがまだ決まってない』との相談だった。私自身を他人に押し付けるのは嫌いな性格故、もちろんお断りしょうとは思った。でも、とにかく日数が無く、困っておられるのを放ってはおかれない性格も持ち合わせていて、「何とかしよう」と。

榊原氏とは、吉田藩の藩校の時習ンのよしみ。私の父は、時習ンの前身愛知四中に学び、後に私が父と同じ学校に入学したことを、ことのほか喜んでくれていたよしみ。
また、私の従兄今泉克英氏と結婚した今泉桂子さんと榊原氏は、仲良しのいとこどうし。
三河アララギに尽してくださった桂子さんとは、「これから一緒にしたいことが山盛り」だったのに、亡くなってしまった悔しさ。

私の父、御津磯夫の検証「引馬野考」。
引馬野、愛知県宝飯郡御津町説をふまえ、参河國宮路山の持統帝行在所。そこより宝飯郡中部を三キロほど、海まで流れる音羽川の海近くに掛かる御所橋の袂に「持統帝行在所跡」の古碑がある。
この近く、引馬神社があり、「引馬野ににほふ榛原入り乱り衣にほはせ旅のしるしに」。そして音羽川は、高市黒人の「いづくにか舟はてすらむ阿礼の崎こぎたみゆきし棚無小舟」。
この歴史厚い地に生まれ、日常の会話に、行動に、持統帝、万葉集、砥鹿神社、兎足神社・・・
それが当然というなかで育った。私の小さい行動範囲ですら、遠い昔が重なることは、ごく自然のことだった。

榊原氏の本の表紙を描かせていただこう。
もう出版社に渡してしまい、刷りあがっているという本文は読んではないけれど、音羽川を歩いてみて、イメージは、葦の穂に臙脂色が見える頃、葦叢にもぐり込んで、この世から隔絶してしまったような、すべてから遠くなり、私の神経だけでたち向かっていた、その時の葦叢の絵にしょう。
出版社に絵を渡し、あとは本にふさわしく「装丁」と仕上げていただければいい。
三河の千年もの歴史を掻き乱し、榊原氏の個の思考が躍動した新しい本が出来たのだと思う。今、この本は、ベストセラーの何番かにある、と聞えてきた。面白いことがはじまっている。
こんな機会を下さった三河の歴史と榊原氏と、ありがとう。

 
 

 


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