鎌倉

 
 

小学生の時、「自宅の東西南北には、何があるか」というような宿題がでた。
よく考え、父母にも相談し、東西南北すべてにお寺があることになった。身近にお寺という存在を把握し、ついでに日本中でお寺の一番多い県は愛知県であることも。
長じて、京都に旅するにつけ、本当に沢山のお寺があることにおどろく。中国へ行った時も、何処、彼処、みゆる限りお寺だった。東京に住み、上野、浅草、日暮里・・・江戸幕府の保護のもと、どの方角どころではなく、隙間もないほどにお寺が集まっている。
美術的、歴史的、文学的・・・興味でもって、あちこちのお寺を訪ねるけれど、自分を省みると、自身の心の拠り所は、父と母とのお墓のある生まれ育ったお寺であり、手を合わせると自分のルーツが遡る。
このごろ、自分はどんな所でお墓になっていたいのだろうか、と思うようになった。


 
 
 
 

私の家から、気軽に行かれる鎌倉の方向によく出掛ける。鎌倉の登り下りの地形のままに、いつか北鎌倉の松ケ岡東慶寺にいた。北条時宗の夫人、覚山尼の開創した尼寺。明治に至るまで男子禁制で、駈入、縁切、と女人を守ったお寺。今は男僧寺。このお寺の背後の山へと至る墓所に魅せられた。
鎌倉の山の傾れの古木の間に間、山の草々の中の苔むす一つの石っころ。自分のお墓の図、思いえがけた。


創建の覚山尼のお墓。後醍醐天皇の皇女のお墓。歴史上のやんごとない方々が素朴な石と鎮まる。西田幾多郎、和辻哲郎、岩波茂雄・・・近い過去の立派な方々。たとえ死んでも自分を置く事の叶うところではなさそう、たった一つの石っころになる難しさを知る。


○ 愚痴無知のあま洒つくる松が岡          蕪村


歴史的には勿論、海と山との風情に多くの文学者、芸術家が滞在し、移り住み、創作活動をし、ゆかりの作品は数々。鎌倉に行こうと思う度、調べたいことが増す。そして、鎌倉の登る道下る道、どの一歩もおろそかにはしたくない。


鎌倉幕府、三代将軍源実朝、鶴岡八幡宮において二十八歳の時暗殺された。実朝の心は、「金塊和歌集」、五七のリズムを伴って、今の私の心に交叉する。


○ ちはやぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらじ


○ 春雨はいたく降りそ旅人の道行衣濡れもこそすれ


○ 空や海うみやそらともえぞ分かぬ霞も波も立ち満ちにつつ


○ 大海の磯のとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも


万葉集の鎌倉の歌


○ 鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ(3365)


○ ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか(3366)


○ 蒔伐る鎌倉山の木垂る木を松と女が言はば恋ひつつやあらむ(3433)


残された和歌を心に、自身の短歌も参加させ、紅梅白梅いかにもやさしく花弁を散らし、白モクレンのひと花ばかりが苞を落す。山の傾りに藪椿の深い紅。中国からきて古木となった柏槙(ビャクシン)の存在感。これからやってくる季節の巡りの、どの場面にもここに居たい。


 
   

 


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