新聞は
一日の内、都合のよい時間を都合良く工面し、それなりに忙しいような気がしていた。
あまりにささやかではあるけれど「仕事」というをはじめると、一日を、仕事向きに変更しなければならなくなった。 家に居る時間が多かった生活から、ほとんど家に居ない生活に変わるにあたり、よく考えた。
まず新聞が要らない。
知りたいことはインターネットで即座に目的が達せられるし、読む暇もなく毎日増殖し続ける古新聞の置き場所、廃棄するべき日時に合わせることも容易ではない。インクで汚れるのも困る。新聞社の傾向の記事に洗脳されるのもいや。事実だけを知り、あとは自分なりに判断して生きていたい。
新聞は朝夕、家に届けられるものであり、何の疑問も無く、小学生の頃よりそれを見開いた。そのことは、当然のこととしてつづいていたのだけれど、アルゼンチンへ行くと決めてから、私の新聞事情は大きく変わった。
1966年、アルゼンチンへゆく船の中。見渡すはまたけく海。飛行機が落としていった様子もないのに、新聞があった。なぜ、どうして、理解出来ず、無線室へ調べにいった。
゛ファックス"ということのはじまりに直面していた。文字が海の上をとんできて、紙の上に記される。このロマンにしびれた。日本の新聞を読みながら、船旅が出来たのだった。
アルゼンチン、ブェノスアイレスの十階建のビルの上の方に居が定まり、こんなに遠く来てしまった゛無謀"を儚んでいた夕刻、「セスタ・ラ・ラソン」呼び声が下方より聞えてくる。さっきまでは、「キンタ・ラ・ラソン」だったのに、呼び声が変わっていた。「見に行こう」エレベーターに乗って地上に着くと、新聞売りの少年だった。それより、「新聞、ラ・ラソ紙」を買いに降りてゆく、というをはじめた。
「セスタ」とは、六刷。一刷からはじまり一日の最後が六刷。その日の一番新しい記事が載っているということ。
スペイン語だから読めなかったけれど、なんとなく眺め、来てしまった国への礼儀かなとも、慣れなくてはいけないことを自分に教えていたとも。
ある日、「日本の上野のパンダが死亡した」写真付きの記事があり、辞書をもちだし単語を沢山ひいたけれど、自分で読んだという実感があった。
その時から、人の言葉を鵜呑みにすることをやめた。自分で読み、自分なりに理解し、自分の言葉でものを言い、自分は自分で守ってあげなくては。
今、新聞をやめる、と決めても、宅配する側は容易にはやめさせてはくれない。懇願であったり、ほとんど脅し状態とか、新聞代よりはるかに高価な貢作戦だったり。
全てに屈することなく新聞を終えた。
朝、新聞受けを気にすることなく、権現山の頂上辺りに建つ自宅より、駈けおりること3分程、東京を南北に走る地下鉄南北線に乗ること四十分、仕事場に着く。
駅のキヨスクで売られている新聞の大きな見出し。電車に乗っている人たちの読んでいる新聞。
自分一人、この世からかけ離れてしまうわけにはゆかないから、傾向をチェツクしつつ、新聞をやめたことで、新聞の存在に興味が湧いた。
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