ことのはスケッチ(308) 2004年(平成16年)2月

『一番近い人』

母が亡くなった時、悲しさ、淋しさ、空しさ、絶望…そんな言葉の含みもつ極限の状態を今知っているのだと感じた。
人間が亡くなるということが実感として押し寄せ、たった今まで、こんなにも心を通わせた母の心は、自の母との思い出の中から探さなければならなくなってしまったこと。決して、一秒もあともどりをしてはくれない、死ということの現実に、ただただびっくりした。

父が亡くなってしまったら、私は短歌が一首も出来なくなってしまうだろう、そのこともふくめ、とてもとても恐ろしかった。亡くなってしまった父母へ、心の中で語りかけられることを探しあて、私の生涯にわたり見せ示してくれた父母の心を自分に大切に仕舞いこんだ。

医家に育ち、末の方に生まれ、私の従兄と結婚した、三河アララギの今泉桂子さんを、一方的に自分に一番近い人と決めていた。桂子さん が亡くなったことは、自分の死と同じ、と思っている。今、自分の死に直面し、驚き、戦き、気が転倒している。

私の姉兄弟達は、中学を終えると勉強という名目で父母の許を離れてゆき、せめて一人は、と私は父母の許に残され、一番物を考え、感じる時期を父母と過せたことは、私の生涯の宝としてついてきてくれている。

そして、世界に向ってゆくことを望む父母の心を連れ、外国に住む選択をした。

その後、太田桂子さんが、私の今泉方の従兄と結婚し、父母の近くに住いを定める経緯があり、桂子さんが近くにいて下さること、三河アララギの底辺をしっかり支えて下さっていること、生活面へのやさしい心遣い、折々の父母からの便りは、外国にいる私の大きな安心だった。

その事実を、桂子さんにお礼など言ったりしない信頼で甘え続けた。

私の外国生活もー段落し、外国から月々の歌稿を送ることで参加していた三河アララギへ、日本に帰り編集部にまぎれ込み、ここで桂子さん と近く、この人と親戚であることが本当にうれしかった。

高校時代、成績が良く、皆の注目を集める素敵な組友がいて、後になて彼が桂子さんの従兄であることを知り、皆の憧れの君と私は親戚であることを宣言。今、東京で時習館の同期の有志が十四、五人、月に一度ずつ飲み会及勉強会をしているのだけれど、その都度、親戚になた彼と桂子さんのことを話すのが楽しみだった。

彼は「従妹に桂ちゃんという可愛いい子がいてね…」と、桂子さんを知らない人達にも自慢をするのが常だった。

桂子さんを共に知る喜びの会話が、桂子さんの健康を憂える話題になり…。

桂子さんが病に打ち勝つことをひたすら願った。現代の医学を信じたかった。

治療中の病院からも、桂子さんは三河アララギのスローガン『続ける』を守り、歌稿は届けられた。

何なりと騒ぎたてる人ではない、もの静かな、思慮深い、しみじみと心が忍ばれる素晴しい歌になっていった。歌稿が届かない月が多くなり、桂子さんの苦しみを察すると心が掻き乱された。

桂子さんを中心にして、ただ存続するだけではない、心ときめく歌誌にしてゆくはずだった。桂子さんの心が残る三河アララギを続けてゆく。桂子さん、これからをよろしく。

 
 

 


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