ことのはスケッチ (363)
『大西洋にて』

華氏十八度のマンハッタン。日本風の摂氏にするとマイナス六度ほど。そのうえ風が吹き、暗くなってきて・・・尋常な寒さではない。
玉由と由野が2008年度の仕事を終えた三十一日の夜中、三人で飛行機に乗っていた。
格座席に付いているテレビが、マンハッタン・タイムスクェアの、新しい年を迎える喧噪を報じている。
さっきまで、あの雑踏を抜け出すのに苦労していたのだった。
ニューヨークを発って、マイアミまでの真ん中あたり、新しい年になった。

マイアミ空港から、レンタカーに乗る。必死でしがみついていた羽毛コートが邪魔になった。生暖かい風を受けて走る。
アルゼンチンと日本とを行き来していた頃、あまりの遠さの、その中間あたりマイアミ、大西洋に百八十度向かう磯砂の上に建つひと休みの家を求めたのだった。
身も心も、海と太陽と風と雨と星と月と・・・地球の自然に自分を戻してあげられるところ。今では、子供達が引き継ぎ維持していてくれる。

「マイアミの家で星ばかり見ていようね」と由野。気になる星に焦点を合わせると、その星の名前、履歴など教えてくれる最先端望遠鏡を携えている。

明かりを消すと、私の寝室の天井が星空だった。小さかった由野がどのようにして・・・私の留守に・・・ひとりで天井に・・・蛍光シールを貼って・・・星座を・・・プラネタリウムほどの星星を・・・。
大きくなって、生涯の進路を決めるとき、「天文学を」と言った由野。「だめ」と言ってしまった私。
ひとの悲しみを、そのひとより先に涙してしまうほどデリケートな子「天文学」が向いていただろうに。

新しい年になりたての星空を、マイアミの家に子供たちと居ることを!しんみりしていた。
「大変!NASAに電話しなくちゃ」「さっきまでここにあったオリオン星座が動いちゃつた!」玉由が叫んでいる。
マンハッタンの摩天楼での生活で、特別にうーんと上を向かないと、空も星も見えないような・・・いつもネオンや明かりがまばゆいから、星を気にしないで過ぎてしまうらしい。
マイアミの海辺は星ばかり、ワインを飲みながら星をみている。
「あ!新星発見。NASAにしらせなくちゃ・・・」また玉由が叫ぶ。
小さな星を二つ従えた大きな星が・・・どんどん大きくなって・・・こちらに迫って来る・・・。新星はあっちにも、こっちにも、飛行機でした。
「いつもの星が見え始めたからワインにしょう」「お星さまが頭の上になったから、寝ようか」一日一日が星々のまま。

マイアミまで来ると、アルゼンチンが近く感じられて。
アルゼンチンの食材が売られているから、じっとしてはいられなくなつてしまう。

マルシアが粉だらけになりながら粉を捏ねエンパナーダの皮を作つたな。幼かった子供たちが手伝うとかで、家中に粉の足跡をつけたんだった。

三人でエンパナーダを作ろうという気になった。
もちろんアルゼンチンの粉を買ってきた。粉だらけになった。
牛肉の荒みじん、炒める。オリーブが入っていたことは忘れない。干し葡萄も入れなくては。ゆで玉子の荒みじん。玉葱とポロ葱のみじん切りをいっぱい入れる。
大奮闘した皮で、餃子みたいに包む。卵黄の艶出し。オーブンで焼く。
家中にアルゼンチンが香り。アルゼンチンのエンパナーダが出来上がった。
少しばかり“昔”ではなかったけれど、ほとんど満足。
星を見ながら。アルゼンチンワインと。アルゼンチンの思い出と。昔が蘇った。昔に浸った。

 
 

 


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