ことのはスケッチ(366) 2009年(平成21年)6月『「目黒文芸・第35号」、太鼓のはなし、を転載します。父母と一緒にお参りした遠い日、ずっと忘れなかったことがここに』
豊川の太鼓 間 仲 久 子
豊橋で…
豊橋で、“こだま”からおりて、そのあとは鈍行です。久しぶりに、窓のあいている列車には、さわやかな風が、吹きぬけ、景色もゆっくり見られます。
田植のすんだ、青い田圃が目をやすませてくれました。
「豊川、とよかわ」
駅員の声に、あわてておりました。
町の中は、まるでみなが昼寝でもしてるのか、とおもえるほど静まりかえって、人影もみえません。
行く手に、ぽつんとおでんとのぼりをたてた屋台が、出ていたので、豊川の味を一口と、食べてみますと、しこしこして、こんにゃくのおいしい、みそおでんでした。
お稲荷さんといえば、赤い鳥居がつきものですが、なかなか、見えてきません。
そのかわり、大きな木の扉に、鉄のびょうを打った、まるで鬼が島の門みたいのが、正面に出てきました。
『豊川閣妙厳寺』と、額が、かかっていたのです。
(ふーん、お寺だというと……)
私は一瞬考えてしまいました。こんなはずでは、とおもいながら、先方をみると、大きな屋根の、お寺が堂堂と、そびえていました。
境内の広さは、三万四千五百坪とか、しかし中に入って、まず活気があります。
黒い衣のお坊さんが、大勢いらっしゃるようです。
それに、団体の信者が、日曜日でもないのに、ぞろぞろと、わたり廊下や、境内の中と、あるいてました。この人たちは、貸切バスで、きているらしい。
とにかく、受付へいきまして、
「あの、お食事つきは……」
と、私はおかしな質問をしてしまったんです。
「お志、千円でもよろしいです。」
お坊さんが、ちょっと白い歯をみせたので、ほっとしました。
控え室に通されて、少し待たされたあと、お迎へのお坊さんといっしょに、黒光りの廊下を歩きました。
たどりついた本堂は、うす暗く、赤いまんまくが目につきました。その中で、十人ばかりのお坊さんが、呪文(じゅもん)のようなお経を、唱えていました。
二、三人が、取手のついた太鼓を、前の方へ出したとおもったら、
「どどん、どんどん、どどん、どんどん」
と、力一ぱい、打ちならしはじめ、
「ドジャン、ドジャン」
ドラが、まけまいとひびきだして、お経の声が、一だんと、高くなりました。
私は、細い目を、いっぱいにあけて、お坊さんたちにみとれてしまいました。
やがて、手にした経本を、ばさり、ばさりと、扇子をひろげるような型で、たたんだり、ひろげたり、しはじめて、太鼓と、ドラのいりまじり具合、もうまるで、ラマ教の声明のようでした。
ラマ教に、少し関心がある私は、うれしくて、柱のかげに、立ちつくしてました。
「ドジャン」
ひときは、大きくドラがなって、お経は、終りました。
お坊さんに、うながされて、友達と一緒に、正面に向って坐りました。
今、見たことと、同じことを、また目の前で、見ることが出来たのです。
ほどよい暗さに、赤いまんまくも、法力の象徴となり、キラリ、キラリと光る金色のドラと、柿色の法衣のお坊さん達の動きは、太鼓のドドン、ドンドンという音に合って、それは一つのドラマでした。
(しかし、お稲荷さんが、ここでは御本尊では、ないようにみえました)
ドラの音を合図に、私たちは、客間へ、案内されました。
お斎(とき)を、たっぷりと、御馳走になり、お札やら、布きんのおみやげをいたゞき、明るい外へ出ました。松や槙、手いれのゆきとどいたつつじが、あかい花の姿を池にうつして、咲いていました。
お稲荷さまは何処かしら、と、広い境内の中を、歩きまわりましたが、建造物が百余りあるというので、なかなか、分りません。
おやっ、と、びっくりするほどの白旗の群を、みつけました。
両側に、かぞえきれないほど、幟が、まるで大将のいる陣地だぞというような感じでした。
ありました。
ずっと奥まった処に、古い社のお稲荷さんが。
社務所には、一本千円で、願かけの幟を上げられる、と、書かれてましたので、お参りは、かんたんにすませて、私も、一本立てることにしました。
太い筆に、たっぷり墨をふくませて、家内安全と、書き、自分の名前と、住所もしっかりと、しるしました。
豊川のお稲荷さんに、一年間は、大勢の方の幟にまじって、たつわけです。
ぐるりと、回って、もとの本堂の前に、出ますと、
「ドドン、ドン、ドドン、ドン」
勇しい太鼓の音が、ひびいてきます。
もう一度、あの光景を、みてみたいと、のびあがってはみたものの、とても奥の方ですから、どうしようもありません。 |