ことのはスケッチ(371) 2009年(平成21年)11月 

『新しく三河アララギ』

 三河アララギの九月編集会、会計の方から遠慮がちに「あと二ヶ月分しか発行費がありません」と報告された。
 折にふれ経済状態は報告されてはいたけれど、本当は七年ほど前から会費だけで、歌誌を発行し運営をしてゆくということは無理になっていた。
 編集部の節約とボランティアと私の繕いと…で長らえてきたのだけれど、すぐに綻びることは心得ていた。
 「続ける」ことをモットーにしてきた三河アララギの先達と父御津磯夫、母今泉米子と…「続けない」選択は私には出来ません。
 主幹の御津磯夫が、日本に帰ってきた私に、三河アララギ誌の「割り付け」を教えてくれて、そして私と交代した日。今泉米子が見守っていてくれたのでした。私の心に、とても厳かなことでした。
 三河アララギは世襲とか、そういったことではないことを充分に承知していました。
 御津南部小学校の校歌は、「この御津から世界に広がってゆきなさい」という主旨の歌詞。父が作詩しました。
 私は潜在に律義な性格をもちあわせているので、教えのまま日本から一番遠い距離の国、アルゼンチンへゆくことに決めたのでした。
 現実となると父は「何処へも行くな。ここに居て、字を書いたり、絵を描いたり、織物などをしているように」と内に言い、外には大変喜んで送り出してくれたのでした。
 「ちょっと行ってくるから、そして、ここに帰ってくるから」と約束をして出掛けたのでした。
一度も外国へ行く機会がなかった父母のために、私が見て、私が出会った外国の全てを、短歌に詠み、随筆にして父母に伝えました。
 どんなに遠くにいても、父と母と私と、一つの心、一つの理解を感じていられました。
 三河アララギの皆さんに守られていた父と母の幸せ、生き甲斐だったこと、そして、三河アララギを続けてきて下さった会員の皆さん、これからも、三河アララギを続けてゆくことが私の出来る皆さんへの恩返しだと思っています。
 何を守るにも「経済力がなくてはどうしようもない」という発想から始めた私の会社は、自分は無給で働きつづけ、利益は全て施設に寄付をするという、滅茶をして頼れない会社なのだけれど、お金の掛かる母親を「養わなければいけません」と、教え込まれた二人の子供が、私を守ってくれています。当然のこととして、祖父母の三河アララギが続いてゆくことを心しながら。
 三河アララギの皆さん、どうぞ気を楽にして、思う存分三河アララギを楽しんで下さい。
 私の夢だった一人一ページの短歌スペースを、印刷会社桜創美の社長、日向さんがプレゼントして下さいました。素っ頓狂な注文もこなして下さっている技術の石岡さん、ありがとうございます。
 故に、会費の値上げをしないで続けてゆきます。

 
 

 


Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。