ことのはスケッチ(373) 2010年(平成22年)1月

 『エンリケ・クッティーニ』
  タンゴ・エモーション

 今からおよそ百年前、アルゼンチンの首都ブェノス・アイレスのラプラタ河っぷち、小さな港町ボカに、ヨーロッパ各地から移住してきたクラシックなメロディ、アフリカ系の強烈なリズム、原住民インディオ系の哀愁の音色…異文化が混ざりあい「タンゴ」が生まれた。
 私の気まぐれ、今から四十三年前、日本から一番遠い距離にあるということ、タンゴと名のみ知ること、それ以外はなかった。
 言葉も知らず、知人も友人も無い国、アルゼンチンへ向け四十五日間、船に乗っていた。
 着いてしまったブェノス・アイレスで、どうしたら良いのか、ただ泣いていた…。それでも小さく住む所を探し、近くに花屋があり、バンドネオンが聞こえていた。花を求めようと店に入ると、バンドネオンが止み、初老の紳士がでてこられた。
 「日本の人ですね、タンゴは日本で大変お世話になっています」「こちらにいらっしゃい」とダイニングに招かれた。椅子をすすめられ、すぐバンドネオンの演奏が始まった。
 一メートルも離れていないような、私のために、タンゴの名曲、ウノ、バンドネオンの嘆き、ジーラ・ジーラ…有名なバンドに居られ、日本へも演奏に行かれたということ、身振りでの会話。
 帰りには、赤いバラをプレゼントして下さって、「いつでも聞きにいらっしゃい」と。
 「アルゼンチン。ここに住めるかもしれない」と思ったのだった。
 ブエノス・アイレスに住み続け、日本にひと時帰った折、「アルゼンチン・日本」のパーティで、タンゴ楽団を率いて日本に滞在中のタンゴ学校の校長先生、ピアノの魔術師…エンリケ・クッティーニと出会った。
 演奏活動の間に間、ホームシックの楽団員達に、アルゼンチン風の料理を用意したり、エンリケが心良く応じてくれて,彼の素晴らしいピアノ演奏でもって「外出が不自由な人達」を見舞うことができたりしたのだった。
 私の、地球を動き回った時期、しばらく会うことがなく過ぎたけれど、エンリケ・クッティーニ楽団は毎年、もう二十年も日本での活動を続けていて、アルゼンチンの大自然や人の心の移ろいを表現する演奏は、多くのフアンに支えられていた。
 ひょんなことからお互エンリケ・クッティーニを知っていることに気付いた,エンリケのプロモートをしている友人が、今年の「タンゴ・エモーション」に招いて下さった。
 開始前の楽屋で、久し振りのエンリケに会えた。何も言わなくてもわかりあえる。何を言ってもわかりあえる。私が地球でみつけた一番心が“ほっ”とする友達エンリケ。
 また来年も、エンリケは日本にやってくる。
 私のアルゼンチンは終らない。

 
 

 


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