ことのはスケッチ(390) 2011年(平成23年)6月
『短歌クラス』
「人には人の考えがあり、自分は自分の何にも作用されない考えがある」「自分の考えることは、友達やいろいろな人と、あまり同じではない」「自分は、あまり大切な位置に存在していない」…小さいながら自分をそんな風に考えていた。
そして「自分が人に教えるという立場になることはない」とも思っていた。
長じて“教職課程”は取らなかった。その空いた時間は、試したかったこと、行ってみたかったところ…全部を尽くして遊んだ。
その続きのまま、日本から一番遠い国へも行ってしまったのだけれど。
そこでやっと、自分で収入を得なくては生きてゆけないことを知り、父母がもたせてくれたものが売れたり、自分の絵が売れていったり…売れた絵の関係で、日本の芸大みたいなアルゼンチンの大学から「日本の染織を教える」という要請があり…あまりに立派で威厳のある教室が私に用意されたので、「教職取ってませんから」とことわってしまった。
「引き受けていれば、…今ごろ偉くなっていただろう…」。やはり私には似合わない。
アルゼンチンと日本と…何らかの役にたてば…とはじめた「仕事」も、遺伝子組み換えとか、物を造る姿勢とか…私の手におえなくなり「やめる」判断をした。
隣りの「介護の仕事」をしている友人に、別れのあいさつにゆくと、「介護センターで短歌を教える」という話になり、「一緒に過ごす」ということで引き受けた。
手頃サイズのスケッチブックを用意し、どんな色も揃っている色鉛筆と、水彩道具と、その日咲いていた桃の花とを携えて介護センターへ出掛けた。
「絵は描いたことがない」「恥ずかしい」「今まで自分のことなど考える余裕がなかった」…などなど聞こえるけれど、桃の花が散ってしまわないうちに、まず自分が、勝手に描きはじめてしまった。
気付くと、皆も描きはじめてくれていた。『短歌とは、自分の目で見、感じたことを、自分の言葉で表現することであり、それには実際に描いてみること、よく見て描いていると、今まで気付かなかった自然の現象が見えてくる。別の世界が広がる。言葉が自然に湧きだしてくる。心がリラックスする。
描いている花のルーツや、思い出や、世間話もしながら、世界で一つだけの絵や短歌が自ずからできてしまう。
センターに飾ってあるお雛様も、お内裏様も一緒に描き…。そして、この短歌をつくられました。
エーゼットに飾られる雛描ききてせわしく飾るわが三代の雛
阿 部 淑 子
エーゼットに来られる途中の工事現場に切り捨てられてあった紫もくれんの大きな枝を抱えてきてくださった日には。
工事場に捨て置かれありモクレンの蕾の枝の水あげいのる
阿 部 淑 子
スケッチブックの絵に、短歌が添えられ、どんどん増えて居るのです。
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