あのことこのこと

 

外国に住んでいた頃のこと、その国の事情、民俗性、言葉や慣わし、遠い国にやって来てしまった独りぼっち感、・・・そんなことに順応し、仕事というをしてゆく。対処するべきことは終りになることは無い。来る日も来る日も、途切れる事の無い頭痛を鎮めようと薬を飲む。
飽和状態の思考から一瞬たりとも逃れるべく、方法を探した。


アルゼンチンといえば、広大な草原パンパスを馬に乗って突っ走る。やはり、そんなのを実行しなくては。そして、馬を全速で走らせ、ただに走るという動作になりきれた。とはいえ、馬から降りるとまた堂々巡りの雑念はつづき、『日本にかえれば、こんな状態から逃れられる』『日本に帰りさえすれば、やさしさに囲まれて暮らせる』。ひたすら日本を拠り所に生きた。


30幾年のストレスの後、やっと念願の日本に帰り付き、『もう安心』どころではない。心痛むことは押し寄せ、傷つき、長く留守をした日本とのギャップ・・・。
風邪をひいたとか障害ではなく、声がでなくなってしまったり、検査では何事もないのに身体中に湿疹、しばらく湿疹に怖い思いをする。『よくご無事で』などと言われるほど血圧が高い。またまたストレスの塊になっているらしい。
頭の中をからっぽにするのに絵を描くことにする。じっくりモデルを描くときも、風景のスケッチをするときも、雑念から遠ざかる。完全に無になるのは、人間の動きを追いかけて描くクロッキーのとき。6Bの鉛筆が減り、描き続けられなくなったときだけ我にかえる。
イーゼルに向かい背筋を正しているから『お腹が空いて』絵を描いていることに気付く。
神様や仏様に祈るのと同じ状態と思う。


介護病院を経営している友人と、食事をしたとき諭されたことがある。
"寝たきり"で入院してくる患者さんの日課に、太極拳やヨガを取り入れたら、歩いて退院してゆく人が増えた、と。
ニューヨークで働く子供達も「仕事のこと」「あのことこのこと」、ヨガに行ってくるとスッキリするよ、と伝えてくる。彼女達と共通の経験をもつことはうれしい。そして、私もヨガを始めた。


靴を履く。靴下をはく。スリッパ。素足にならなかった足が、床を感じ、材質を感じ、立つことを感じ、素足になった喜びが足の裏から伝ってくる。
今まで一度も伸ばすということをしなかった身体の背面、側面、前面を意識し、身体をひねるポーズが心地よい。
年と共に退化するのみ、とおもっていた身体の緊張がほぐれ、融通がききだし、進化すらはじめた。
沼土の蓮根から、水を、太陽を、空気を・・・得、芽を出し葉となり、花と咲き、花を散らせ、実を結び、また根に戻る。蓮の一年をイメージしたヨガの動きに、私もすっかり蓮になりきる。
大地より立つ、風に葉っぱを靡かせる一本の木にもなる。獣、動物になるのはどうも好きでないから、なりきれないところが私流ではあるのだが。
人類何千年をふまえたヨガの、人間の本質の動きのなかに入り込み、身体はもちろんのこと、ものを感じる角度が広がった。
常に近くに置かないと心配だった常備薬の出る幕が、今のところ無い。

 
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