幼かった頃、遠足、運動会などすぐ手が洗えない状況になる時、母は小さな丸い缶にアルコール綿をいれて持たせてくれた。おむすびを食べる前に、アルコール綿で手を拭くと、綿は真黒くなった。
そんな風に育ったから、自身がきれいに保てる所に居たい。水の無い所には行かない。虫が居る所にも行かない。動物から病気がうつることを常に聞かされていたから、鳩が群れている所にも近付きたくはない。アルゼンチンにまでも行って暮らしてきたとはいえ、行動範囲がきわめて狭い。
この頃、携帯除菌グッズもあり、携帯していれば虫が寄ってこない新兵器も開発され、山は遠くから眺める、決して自分が近寄れる所ではない、との思いもほぐれてくる
「高い処で、ビールの泡はどうなんだろう」とおもいたって富士山の五合目まで試しに行ったときは、「なんだ、平地と同じ」という結果だったけれど、同種の草々にもかかわらず、登るに従って丈が低くなってゆくことを実感した。木々の種類についても、高度が大きく影響するのが見えた。
そして、富士山五合目の山肌が、遠くからでは見ること感じることの出来ない臨場感で押し寄せた。近寄って見る。近寄って感じる。出来るだけ近寄ってスケッチする。近寄ることの面白さを知る。
以前、中央線に乗っていて、思いもかけず大菩薩峠が見えたことがあった。その時以来、ずっと気になっていた。
スケッチをしたい仲間があり、望みは叶ことになった。折角行くのなら、中里介山の「大菩薩峠」を読まなければみっともない。
世界一長編の小説は、本屋の棚にずらり二十冊並んでいた。とても全部は読めない、せめて雰囲気だけでも。一番始めの、物語の発端あたりでスケッチの日になってしまった。 |