ことのはスケッチ(316)

母のこと

小学生の頃のこと、母の手伝いをするつもり「"海老のそぼろ"を作る大きな擂り鉢が動いてしまわないよう」しっかり押さえていた。
母の力が私に伝ってきて…うれしかった。だのにどういう訳か「ごはんを作ったりしているだけの人になるのは嫌だ」と訴えてしまった。母は「女の子でも家のことばかりをする人にならなくてもいい、自分の力で自分の好きな生き方を作りなさい」と諭してくれた。
具体的ではなかったけれど、きっと自分は「したいことをしてゆく人」になるだろう、と思った。

世の常の「お見合い」ということをせざるを得なくなった時、母は相手の両親に「この娘は、したいことがありますから、家のことばかりさせるという訳にはゆきません」と積極的に断ってしまった。
その後の、結婚ということになった時も、母は相手の親に「他家に馴染むような娘ではありません」と断りに出掛けたとは、義母が後に話してくれた。「何なりと好きなようにしていてくれれば」ということでここは治まり現在に至る。
まわりから守られ、せっかく母が私に託してくれた思いを…独立した人間になれる条件は整っていたというのに。「たいしたこと出来なかった」「もうすぐ死んでゆくのだなー」と振り返る。

母、今泉米子の歌集「續草々」(昭和53年〜57年)
○ 思ふままうたひしものの一つなくただ裏方のわが五十年
「續々草々」(昭和58年〜62年)
○ 天皇の料理番に習ひしこと思ふ過ぎゆきにけり五十年あまり
○ 男女児を同じ大きさにと幼年誌の表紙繪の抗議獨りしたりき


長く住んだアルゼンチンと日本と、関わりのあることを、私でなければならないことを、すっかりおくれ、今になってしなったけれどこの考えの本拠を『アルゼンチンの大草原のアルファルファの花の採れたままの天然蜂蜜』と決めた。


アルゼンチンの生活で、いつも身近にあった物を、日本に輸入する事くらい「簡単」と思っていた。いざ実行に移すと、あの手この手を尽くしたつもりにもかかわらず、七ヶ月間定めた店「花守」に品物は届かなかった。
待ち疲れ、恥ずかしくなってしまった頃、やっとそれでも届くという日がきた。
予定の時刻、店の規模からすると巨大な、4t積みトラック2台と2t積みトラックとが、商店街の狭い道巾いっぱいになって止まった。もちろん荷を降ろすことは出来ず、遠く広場を探し、小さいトラックに積みかえ、それを何度も繰り返しして店内に運び込む。10tの量は、何度も計算をし、準備をしたはずが、桁外れの現実に、自分の仕出かしたことの無謀さを知るのだった。


個人単位としては恐ろしく思える量の蜂蜜も
「大好きだから自分のために輸入してしまったのだけれど、ちょっと多過ぎてしまって…」という私に共感をして下さった大きな流通会社が全量の1/3を引き取って下さることになり、まず落ち付いて、穏やかに蜂蜜屋を始めることが出来た。


このことを始めたことに関連し、新しい人達と知り合い、新しい人達は、新しいものをもたらし、発展してゆかれるような、自分自身の仕事として勇気が湧く。

 
 

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