ことのはスケッチ(313) 2005年1月

伊藤若冲と貫名海屋と

外国に住んでいたときは、「日本に帰りさえすれば、本当の自分の居場所、父母がいて、育った古里がある」その思いを拠り所にしていきてきた。だから日本に帰り、父母と何言わなくても分かり合える、人として至福の時を共有した。古里は心地よかった。父母が亡くなる。


自分の居場所探し、古里作りにあたり、よく京都へゆく。大阪への仕事の帰りに寄るのであったり、急に行きたくなって、なんとかかんとか理由をつけてみたり・・・この何年来の私の年中行事としては、紅葉の終わった頃の京都。「いつも」の宿に泊る。
丁寧に、真底やさしくむかえられ、私の居場所のひとつとひととき甘える。


目的を目指すこともあるけれど、さりげなくただ京都にいることを喜び、気のむくままにしていることの方が多い。
奈良線に乗った。満員だったけれど、一つ目の東福寺駅で皆降りてしまった。混雑を避けるつもりで一つ先の稲荷駅で降りた。赤い大きな鳥居の前を通りすぎ、京の暮らしの路地をゆくと、紅殻色の竜宮門がみえ、案内板に「百丈山、黄檗宗『石峰寺』裏山に五百羅漢」と。お参りしてゆこう。

階段を登って行くと、「若冲居士の墓」、私が狂おしくもあこがれる江戸中期の画家伊藤若冲、その人。あ、ここにおられた。何度も読んでいた事なのに、結びついてはいなかった。
若冲居士のお墓の横、私の子供達の四代前の祖、貫名海屋撰文の筆塚があった。知らなければいけなかったことに、偶然があった。
そして、裏山に登ると、若冲の絵より、石工が彫り起こし、一体一体並べたという、釈迦如来像、十大弟子、釈迦の弟子五百人の五百羅漢・・・。一山をして、釈迦の誕生より涅槃まで、釈迦の一生を表現してある。三百年近い年月の、雨、風、空気・・・に晒された石仏群は、おだやかな丸みをおび、優しさのなかにユーモラスであり洒脱であり、若冲の絵そのもの、本当の人間がみえる石仏が、山のなだりに適切にその役目をもって置かれ、まだ根方に四枚五枚皮を残した初初しい今年竹の緑青色と相まって、なんという安らぎ。

吉井 勇 の歌

われもまた落葉のうえに寝ころびて羅漢の群に入りぬべきかな

私も、この歌と同じ季節にここに来て、ずっとずっと石仏と並んで坐っていたかった。

「いつも」京都の最後は錦市場にゆく。花山椒の佃煮、ちりめん山椒、スグキの漬物、赤かぶの千枚漬、ハモやアナゴ・・・大好きを買い集めるために。
その錦市場の中にある京野菜の青物屋が、江戸時代から続く若冲の生家で、私は錦に行く度ドキドキしてしまう。この環境が若冲の画となった多大な素材を集め得たのだろう、貝類、魚類、虫類、鳥、鶏類、動物類、果実類、野菜類、花類・・・。絵にする対称のそれぞれにふさわしい、その特質を見極めた表現。どうしてこんなにすばらしい絵が描けたのだろう。

京都だからこんなにすごいことが起ったと信じている。

 
 
   
 

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