ことのはスケッチ(296) 2003年8月

小石川植物園

アルゼンチンに住んでいた頃は、時々「日本に帰る」というのが一番大事なことだった。
日本に帰る度、「外国にいて日本を知らないだろうから」と、東京を、日本各地を、連れまわってくれる友人がいて、ひとりでは行き渋ったり、いつか行く所、と延ばし延ばしになるだろうところ、「日本に居る間に」との切迫感とともに、とにかく多方面を動きまわった。
日本最古。植物園の元祖。幕府の薬草園としてはじまった小石川植物園も、日本に帰ると必ず行く大好きな場所と定着していた。


植物園の門を入ると、パンパスグラスが一群、秋であれば槍穂を大きく立てて。
パンパスグラスとは、アルゼンチンで育っていた子供達の、三ヶ月間の夏休みを日本で過ごし、地球を半周してアルゼンチンへかえって行くと、ブェノスアイレス空港一帯のパンパスに、パンパスグラスの白く大きな槍穂が立ち、それはそれは特異、雄大、アルゼンチン独特の風景に迎えられるのでした。
土屋文明先生の「青南後集」、小石川植物園タイトルの十一首。
パンパスグラスの歌があり、何処に立たれたか、何処を通られたか。ここに来る度。文明先生のあとに従うような、ご一緒させて戴いている気持ちになる。

私の、個人的な文明先生との思い出は、東京で美術を学ぶことになったその機会を、上京した父母と南青山の先生のお宅を訪ねた時のこと。照子夫人もご一緒してくださり、短歌のこと、植物のこと、話は弾み、先生は、私にも話題を向けて下さり、「染め、織り、図案、テキスタイルを志すこと」をお話すると、庭の植木棚に私を招き、ひょろひょろした草の鉢を持ち上げられ、「むらさき、この草の根でもって紫色を染めること」を教えて下さった。栽培が難しいこと、乱獲で滅びかけていること、なども話された。
私の生涯への出来事でした。

 

小石川植物園の一歩一歩は、本当に興味深い。 
「万有引力の法則」のニュートンのリンゴの木が接木により、ルーツ正しく小石川の土に根づく。しみじみと、落ちたリンゴの物語を思い起こす。
「遺伝学」のメンデルの葡萄もしっかりルーツを保ち、本物を守り続けている。
イロハモミジの並木を通り抜けると、イチョウの雌木の若い種子より精子を発見したという、そのイチョウの大木が銀杏をたわわに実らせて、古木。
そして、菩提樹の並木につづく。葉っぱに伸びた細い茎に花が咲き、実となって行く様子。葉っぱのその時々に、立ち止まらずにはいられない。
鈴掛の木は、こんなにも大きくなるもの、のびのびと。切り詰められた街路樹とはなんと違う。
北米から日本に入ってきた一番始めのユリの木が、ここに背高い。外国に根付いてゆくそのドラマに、しばしうろうろ。落葉樹の新しい葉が出揃ったころ、高い木の高い位置に花が咲く、たちまち花を見過ごし、来年こそは、と未練がましく。
青木昆陽の甘藷試作跡。貧困者救済の小石川療生所の井戸の名残。徳川幕府の薬園の続きは繋ぎ、この木、この草、薬となるを知る。


私の生家は、開業医だったから、育ったひとつ家のなかに診療室、レントゲン室、病室、薬局などがあり、患者さんや薬が身近だった。
アメリカから種子で日本にきて、昭和二十四年三月、小石川植物園に播かれたメタセコイヤの最初の木は、すでに巨木、林をなし、薬を調合する乳鉢を持った母がよく眺めていた私の育った庭のメタセコイヤは、ここより増殖した一木。
ここに来ると、亡くなってしまった母の近くにいるような気持ちになれる。

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