アルゼンチンつれづれ(23) 1980年09月号

植村直己

 アルゼンチンの北部砂糖黍の産地トゥクマンにおいて、一八一六年七月九日に独立を宣言した記念日がやってくると、ブエノス・アイレスではもっとも寒い時期。学校は冬休みに入ります。日本と同様に四季がある国なのに、どうも冬が嫌な民族の様で、ドルに換算したらアルゼンチン国内で生活する同じ費用で旅行して買物が出来ると、マイアミヘブラジルへと暖を求めての話題が行き交います。 学校より一枚の紙切れを振りかざして「絶対に行く」と勢いよく帰ってきた日より幼い頭を満してしまった、メンドサ、サン・ファンヘの十日間のキャンピング。学友とはいえ外人に混って、それもブエノス・アイレスから千キロも離れた地方へ、汽車に乗って十六時間、南米大陸で一番高い山アコンカグワの麓までも行ってしまった玉由。彼女の期待と喜びに消されて、冬装束のスキーまでするという大荷物。その上未経験のキャンピングヘ九歳の十分に日本人的な娘を一人出すということへの不安を忘れ果てていて、送り出した後、メンドサで風速二百キロの突風があって電気が切れたとか、今年は特別寒いとかのニュースを聞くにつけ、あの大荷物を一人で引きずり運んでいるのだろうか。子供の世界の厳しさ、彼らと同じ民族の顔ではない我が子が仲間はずれになってはいまいか。生まれた時から子守に付添われ、名門セリーナ一家の庇護の下に、行列をするなどということは知らずに育ってきてしまった娘が、指定された琺瑯のお皿で、分けられたアルゼンチン料理を食べているのだろうか。
 自分が一人で食べるだけだからとゆかりのおむすびを二個だけリュックに入れて旅立って行った後に、仕事で出かけた日本より帰ってきた父親は「生きて帰ってきさえすればいい。身体にも心にも過程が厳しければ厳しいだけ強くなれるのだから。かわいそうだけれど我慢して見守ってやるのが親の役目だ。特に外国で生きてゆく人間になるのだから厳しい経験が必要だ」と離れ住むのに慣れている弁。「この家に、暫くけんかがなくなるね」という次女は何をしたらよいのか見当もつかないらしく、やたらうろうろするぱかり。子供達を自分の見える範囲に置いて言うことをきかせておくことが、どんなに楽なことか。 「お母さんが通れぱ道理が引っこむ」と玉由がいろはカルタをもじって私を表現する母親なし、味噌汁なしの日々を過し、雪焼けして帰ってくる日が待ち遠しい。
 外地に住み、目先に追われ、親戚も歴史もなければ、行動範囲が狭くなるもので、今回汽車でメンドサヘ行く玉由を我家から遠くないレティロ駅へ送りに行って、私は十三年間住むこの国の汽車に乗ったことがないことに気付きました。学校で私が知らないことを習ってくるのと同様に、私の知らないことを一人で経験してゆく我が子。
 当時まだあまり有名になっていなかった植村直巳さんが、食事の仕度をする私に代って生後まもない玉由をあやして下さった時より八年強の月日がたって、世界にその名前が輝くに至った彼が「玉由ちゃんに逢えるかな」と玉由の三日後の同じ汽車で積雪のアコンカグワをめざして行かれました。
 忍耐と勇気と謙虚の月目を重ねた植村さんに逢い、より良い月日が我が子の上に重なってゆくよう導いてゆくことが、何にも増しての贈物になることを思うのでした。

 
 

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