アルゼンチンつれづれ(54) 1983年03月号
私そのものに
子供達を励ますにつけ、叱るにせよ、同じ言葉でもって、ほぼ同じ時間帯に、同じ動作を伴ない……と同じが幾つでも連なってゆく日々を重ね。「ハンバーガーを食べるのなんかいやだ。」と非常に思っても「何でもいいや食べれば済みだから。」と開き直って子供達に付き合ってしまい。私は夜が好きなのに、夜だけはっきりしているのに、その夜をあきらめて、毎朝、暗く寒い五時起きをして、ひたすら子供の練習のペースを守る。
「わぁ大変だ!日本人がいっぱいいる。」と思ってしまった日本の中で、食物にも、言葉にも、子守りにも窒息しそうになって、ある日我武者羅に台湾行の飛行機の窓際に坐っていた。唯一人で。台湾について知っていることは無しに等しく、その上、知人は一人も居ない国。
朝起きがけに露だらけの我家の窓を拭いて見てきた富士山が、飛行機の窓からもよく見えた。
何回もの飛行機での移動で、少しでも世界を見せたいと子供達に譲り続けて久しい、その窓際を今獲得して、自分でもびっくりする程揺れた私の心。
まだ子供達が生まれてなくて、私が書類を持って、仕事ということをしていた時期、一人ポッンと飛行機の窓際に坐って、アルゼンチンと日本をよく往復した。雲しか見えなくても、海が何時間も続いてもアンデス山脈、ロッキー山脈、北極の辺り、夜は闇を、明けてくればその色合を……窓にくっついて眺め続けた地球。子供達に係わった十幾年が、オブラートにくるんだように不透明になって、今私が再び地球を見る。
暫し、すべてから解放されて、私が好むままに私の時間を演出して、楽しむなり、寂しがるなり、私そのものになってみよう。
引っ掻いた所から見える代赦色の山肌と、同じ色に焼きあがったレンガを積んだ家が、まず印象的で、この土から生れ広がってゆく物々。ホテルでお願いしたガイド氏に手伝われて台湾を観る。
「こんなにきれいだから写真を撮ってゆきなさい。」とガイド氏に言われて、はじめて旅にはカメラがつきものであることに気がついたのだけれど。世界に誇るカメラの国からやってきたのにカメラ無しの私。その国から弾き出てしまったのだから。
見える物だけを見て、感じ、忘れる程のことには思いを残さず、もう一度見たいと思うことがあるなら、また来ればいい。
アルゼンチンで暮して、はじめて意識したアジア。今、切実に知りたいと思う。アルゼンチンの友等は、私へのお世辞のつもりか、「日本は大好きだけれど、中国はどうも」と言う。この言葉は、私は悲しく、戸惑わせ、行ってもみないで、という気持にしました。 中国を踏まえての日本、人種の外観だってアルゼンチンの人に区別がつくのかしら。言葉も、中国語、日本語共にアルゼンチンの人には不可解であると思えるし。
故宮博物館にて、中国の罐詰を、コキコキと開けて、「おや!まあ!。」と長い長い歴史も他国に及ぼした影響も、私の歩幅で歩みゆきつつ。ルーペで見ても見きれぬほど小さな一刀一刀を施し続けた中国の人の心に涙がこぼれ、恐ろしさをも感じ、現在の私の筆先にまで思いは至る。
アルゼンチンまで広げた私の物差しで中国を計り、変身とまではゆかなくても、子供達に接する語彙が、心が少しでもふくらめば良いのだけれど。
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