アルゼンチンつれづれ(53) 1983年02月号
真夏のクリスマス
常の日はさりげなく、そしてひたすら単純に過ぎてゆくのに。日曜日という日の過し方にも慣れてきて、父親抜きの日本での生活は軌道に乗っていますけれど、クリスマス、お正月、誰某の誕生日とかの行事の日はいけません。アルゼンチンにてセリーナさん一族や友達、パーティ好きのお手伝いさんマルガリータ、マリア等に囲まれて、華やかに過した思いが蘇って、とっても淋しくなってしまいます。
お客様の顔を思い浮べつつ、楽しく過していただけるようにと心を配る仕度にも心が弾み、日本風、アルゼンチン風にパラグヮイ風も加えてのご馳走作りの指図。お花も華やかに飾り、そして私も華やかに着て。そういえば、普通の洋服という物が私の洋服ダンスにはありません、ジーンズかパーティドレスかの日々でした。
無理矢理に作り出した今の高輪での生活でも、子供達が淋しくならないようにと特に行事の日は気を使って、ミニアルゼンチンを復活させようと勉めますけれど、ミニの度合がより物悲しさを増すらしく、「お母さんいいんだよ、何もしなくて」と逆になぐさめられてしまいます。
子供達が生まれた時から対等に会話して付き合ってきたように、しみじみと話し合います。「また、いつの日にか昔過したような楽しさの日々を以前にも増して取り戻そうね」「その楽しさがとても大きくなるように、その為に日本に居るんだもの」
アルゼンチンかブラジルにいる子供達の父親も、何かの行事の日が一番つらいのだろうと思います、だけど皆で話し合って、「今一番しなければならないこと」と決めたことをしているのだから無用な感傷はいけないのです。目的は目的を達成する為にたてたのだから。
アルゼンチンという国がどんな暮しの所なのか、地球儀的にはどんな位置に存在するかその地球儀をころがして見ることもなく、これから住もうとする国を、どうしてあの時は調べようともせずに、平気で引越してゆけたのか。そして学校の勉強ということをあれほど強制され、いじけさえして、そしてどうしてあんなにアルゼンチンについての知識がなかったのだろうか。
気が付いた時には、南半球で涙を零していた。悲しいとか淋しいなんていう確かな感情があったわけではなくて、目を開けていると自然に目から涙が落っこちてくるのであってあの当時以来、あんな状態になったことがないのだけれど。そして涙の間に間に見えたのが、町のショーウインドウの向日葵を飾ったクリスマスツリーでした。強烈な黄色が私の身体を通り抜け、一年中で一番暑い頃にクリスマスがやってくるのだということを教えてゆきました。その暑い時期でも、サンタさんは雪の上をゆくのと同じ服装だったのが滑稽だったこと。そして冬のヨーロッパと同じ御馳走をヨーロッパ直輸入の習慣でもって、汗を流し流しいただいたこと。次の年もまたその次の年も、クリスマスが来る毎に、向日葵を私の部屋に飾ることとしてきて、今年、冬の日本のクリスマスを、クリスマスだからと頭で思いつつ、まだ暑くならないのだからと身体がクリスマスを否定して。そして、いくらどうもがいていてもアルゼンチンにいた時のようには過せないと知ると、子供達は自主的に練習時間を延してしまって、日本の人々がケーキを食べているであろう時間になっても家へは帰らない。私は、早く早く、このクリスマスという日が過ぎていってくれるようにと息を潜めているのです。
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