アルゼンチンつれづれ(52) 1983年新年号

日本の非居住者

 アルゼンチンにいて、日本に歌稿を送っていた頃は、一万五千ペソ程切手代が掛りました。その頃から一年もたってしまって、「アルゼンチンの友達は夏休みになったね」「今年は皆、どこへ出掛けるのかな」寒くなってゆく日本にて、暖かさへの願望が手伝って、ハカランダやセイボが花盛りであろうこと、喜びにも哀しみにも、力いっぱい抱き締めた体温でもって分かち合ってくれた友達のいるブェノスアイレスを思い出すこと頻りの今、合計二十万ペソにもなる切手に、宛名も隠れんとして手紙が着きました。大変なインフレです。もう慣れっこになっていて、子供達への小遺いも毎月値上げしましたっけ。「日本に来て、一年間一度も上げて下さらなかった」と子供達は言いますが、慌てて使わなくても貯金をしておけるということは安らぎの様です。
 一人の人間としての自覚を持たざるを得なかった十六年間の異国住いで、一人で考え、一人で実行、いうなれぱ底ぬけに我儘な独り善がりな精神を養いあげてしまった私が、日本に非居住者でありながら住む日々。日本のあちらに、こちらに気持をコチンコチンとぶっつけながら。子供達にも心の葛藤は隠せません。
 「お母さんと話す日本語だけだったら、学校で恥ずかしかったんだよ、友達が話していることでわからないことが沢山あった」と私が一度も使ったことがない今出来の言葉をもう使いこなしている子供達。スペイン語で労わられていたように、日本語でも労わられているのです。子供達にとって目新しい日本の食料に挑戦しては、私一人で後始末をし続けた日々。
  玉由が開けたドアを、日本の男の人はスーッと通りぬけて行っちゃうんだよ、日本人ってどういう教育をされているの?」教室で消ゴムを落してすら、男の子がワッと拾ってくれた“女の子を大切にしないとは教養の無いこと”と男の子は生まれた時から教育される国に育った玉由の発想です。私も女に連なる者として、大変この恩恵に与ってきました。
 日本では“上辺の礼”と評されることは扨置き、一人の人間として全ての面でシャンとせざるを得ない気持になっていたことは確かでした。
 毎日電車に乗る生活となり、乗るにつけ降りるにせよ、押し黙ってぐいぐい押しまくる人々に、私は虫ケラ扱いされた気持がして穏やかではありません。人間同士「降ります」とか「失礼」とか二言言葉が必要だと思います。
 人で溢れる歩道を行き来する東京の生活で道幅いっぱいになって後からの人のことには思いが至らない人、一番人々が迷惑する所で立ちどまったり、大勢の人の中の一員であるという心がまえに欠けた人が多すぎる。町をゆききすることだけでも、只我慢をする。日本中の人が一言言うのをやめて、我慢をする癖がついてしまっているのだと思う。
 「日本に行きさえすれば」と、どんなに日本に甘え、心の支えとして今まで生きてきたことでしょう。知人の居ない外国に行ってすら淋しいと涙を零さなかったのに、頼りにしていた日本に来て、この淋しさ、苛立、心がとても脆くなっていて。
 「うちのお父さんは、本当にこんな所にしか住めない程貧乏なの?」と玉由がそっと聞いた。二年契約で借りたコンクリートの囲いに籠って、富士山や月を見ていて気が付いた。私が死んでも日本国には骨を置く所すらない。今やっと、インフレでもいい、アルゼンチンで死ねる。今度アルゼンチンヘ行ったらマーママの近くのお墓に私も入りたいと頼んでみよう。

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。