アルゼンチンつれづれ(51) 1982年12月号
日本での生活
まだ明けきらない冬の朝、木々の根元を霞が隠し、夢が現か、眠気眼に、動かない静かなパレルモ。一周ニキロ程の池のまわり、咲く花、落果も落葉も、各々の存在を主張する匂いに満ちたなか、「椰子の木の所がいいな!」「松並木の始まる所からにしよう」と子供達の父親の日課、ジョギングの出発点選びも以前のように。我家に時差ボケという言葉はなくて、ほんのちょっとのアルゼンチン訪問でも、せっせと通うパレルモから一日が始まってゆく。何処に住むのか、何を職業とする人なのか、名前すら知らないのだけれど、もう何年来の顔見知りである早朝のパレルモを走る人達に会釈をし合うと、アルゼンチンに来たことが、アルゼンチンに私の歴史があることが、じわーっとうれしくなってくる。 「もう少し速く走れないものなの?」と我家の三人が私をものすごいびりにして走り去ってしまう頃、高い高い木々の梢に朝日がやってきて、どうしたら良いのかわからないような美の中を、汗びっしょりの私がゆく。
こんなに親しいパレルモ公園のある国、アルゼンチンへ父親を残して、「こうするより他に仕方がなかったんだよ」と玉由がボソッと言う。父親ぬきの日本での生活が続き「もうハカランダの頃だよ」「常の年だったら、日本行きでソワソワし始める頃」「ハカランダの様子を伝えてくれるかしら」と期待されて、仕事方々父親が日本へやってきた。
「体操で忙しいからお父さんには付き合えないかもしれないからね」と国際電話で話していた由野はその言葉のとおり、なかなか目覚めて父親に逢う時がない。
学校前の早朝トレーニングの玉由。学校からついでに体操教室の由野。次の日の為に早く寝る。玉由が寝てから家に帰ってくる。由野が一日の最後の宿題を終えて寝てしまう。そして暫くして「もう寝ちゃったのか!」と帰ってくる父親。
十日間の日本滞在中一度も家族と夕食をしなかった人。
仕事が終る時間に、帰宅所用時間をプラスすると家に帰り着くと決っているアルゼンチンの普通の人々の生活を見て育ってきた玉由が、「お父さんの日本最後の夜は家族揃って過そうよ」と心を砕くのだけれど、「なるべく早く帰るから」と出たきり、「お父さんまだ帰らないね」と子供達の何度も何度も同じ言葉の末、あきらめて寝てしまう。私も明日早いんだから、こんなに起きていてはかなわないと思い到る時刻にも帰らない。
私達のアルゼンチンの会社の、私がまだ工場の人達と接していた頃は、「仕事時間内に能率をあげ、“残業すれば良い”という計画をたててはいけない」と言いきかされてきた。キラキラ光る高価な物が欲しい訳でも、銀行にしまっておくお金が欲しい訳でもない。たった四人家族が定めた目的に向って力を尽すという単純な生活を欲するだけなのに私の身近である人のこの残業? ぶり。
日本の男性と結婚したチリー人の友エリは「日本では男の人だけで外で食事をする!」との発見に天変地異。「休みも休まない」「話をする暇もない!」チリーやアルゼンチンだったら、たちどころに離婚理由となる日本の仕事という言葉。「日本人と結婚したけれど私はチリー人よ」とスペイン語は途方にくれていた。
「お父さんがきっとよろこぶよ」と普段の女子供の生活では買わない食物で満された冷蔵庫の中味を減らすことなく、我家の空気に混乱と男の匂いを残して、「もうペルーの辺まで着いたかな」暫くは「お父さん好み」の食物を否応なく食べつつ、彼を偲ぶのであります。
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