アルゼンチンつれづれ(49) 1982年11月号
南十字星の思い出
「あれ何の鳴声?」アルゼンチンから日本へ帰り着いて一番初めに明けた朝、パジャマのまま飛び出してきた由野。目覚めてゆく耳に、九年間生きてきて初めて聞いた鳴声。蝉を知らなかった私の子供達。それを知った私は、もっとびっくりしたのだけれど。思えばこの何年来、アルゼンチンの夏休みは常に日本の冬で過ごしてきたのだから。
アルゼンチンで夏を過していた頃は、三ヶ月間の内半分は海、あとは山。
風向きによってはラプラタ河の黄土色が混る海、大西洋のひと所、別荘が幾つか建っているひなびた海辺で、その幾つかのうちの一つの別荘を借りて、水平線が地球の丸みをおびる景色の中で砂にころがり、太陽に焼け、時々は背鰭の群がゆき、直接大西洋の波がくだける渚には、ひと掘りすれば、大きく育ったアルメッハ(アサリ類)が、こんな大きな海なのに、何段階にも重なる程ぎっしり詰まっていて、和風、洋風、何風にしてもおいしく、その場でレモンをかけて食べてしまうことも。南十字星が頭上にくるころ桟橋に出て網をペチャペチャと出し入れするとペヘレイが掬える。美味この上もない。
隣の別荘のアルゼンチン一家は、貝も魚も決して取ろうとはせず、海にきても、ひたすら牛肉を食べていました。
あと半分の夏はアンデス山脈に連なってゆく山々の麓コルドバの一つの山を敷地とするその山の頂上に建つお城のようなセリーナの親譲りの別荘で。
五年前、九十二歳で亡くなったセリーナの母上マーママの、地位も名誉も資力もアルゼンチンの最高位の優雅に甘えて過した日々。 生まれた時から馬に乗ってきた大牧場主のセリーナの後を、やっと馬に乗っている程度の私が追う、湖を、柳の枝先を分けてゆく小川っぷち、庭先でパンを焼く煙、男達が輪まわっての牛の膝関節の骨を投げ上げての博打……アルゼンチンの民謡フォルクローレの世界をちょっぴり拝見。
雪が降っているように、空いっぱいの蝶が終日とぎれることなく飛び続けていたこと、その莫大な蝶、いったいどこで生まれるのでしょう。遠く向かう山から南十字星が上ってくる夕刻、ツクツクという玉虫のような虫が、螢より数倍大きい光を放ってとび始める。 「私が、ヨーロッパへ行った時は、自分の牧場の牛を牧童ごと船に積んで、毎日牛乳を絞らせて、飲みながら行ったのですよ」
アルゼンチンを訪問したロシアの皇子様がマーママに恋をして、「もうちょっとでロシアへ行くところだった」九十歳のマーママが微笑みながら、東洋からピョコンとやってきた私に話して下さった数々。コルドバ産の山羊のチーズがウイスキーに合って、「そうとなれば、ロシア革命も変っていたかもしれない」なんて私の想像を増長させる。
あまりにも沢山の星、地平線から聞えてくるような犬の遠吠え、人々の住む灯りは、遠く下方に見え、庭師、コック、雑用係、子守と大勢の人にかしづかれて、自分は何一つ手を下すことなく、快適だと思えることだけを探し出してしていればよい。子供達の一番初めの記憶に残った、御伽話のような夏を何回か重ねて、気が付いた。子供達が何の努力もしないうちから、こんなに立派に過しちゃいけない。そして我家に夏がなくなった。
久しぶりの夏、初めての日本の夏、「東京でも木があるのに」「一週間くらい生きているんだね」コンクリートの塊、我が九階の住いの壁に、午後きまって油蝉が一匹やって来て鳴いた。そして、いつか来なくなった。
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