アルゼンチンつれづれ(48) 1982年10月号

ブラジルに会社をつくる

 ブラジルに着けば、今回の旅の目的のただ一つのサインをするということはすぐ解決出来ると思ったものの、空気が悪い。治安が悪いといわれるセンターのその場所へ出かけて行くのが決死の思い。手足まといの子供達は知人宅へあずけ、いざという時にはパタパタと走れる靴を履き、ショルダー式のハンドバックは、首を通して斜めにしっかりとかけ、その上抱え込む。道路は車で埋まり、そろそろ近づいたという辺の駐車場に車を置くと、目的の事務所へ向けてひた歩く。私一人だったら二度と自分の車の所になど戻ってはこられそうにない。後に付いてゆくというのは楽なことだと気付く。日本で暮し初めてしまった私達に月々の送金をしてくる子供達の父親の毎日の仕事の範囲、サンパウロの町をキョロキョロしながら、私も子供達もかなり我儘だなと思い至った。
 一つの会社が出来上る為のサインを終えてまだ仕事が残る父親は、後からブエノスアイレス行と決めて、一家揃ってという甘えの時点をうろうろしてはいられない我家の現状のままに、「あと二時間!」と声を弾ませる子供達と、また飛行機に乗る。
 飛行機の窓がアルゼンチンの風景になってくると、じっとしていられなくて立ち上って飛び跳ねてしまう。子供達の身体にアルゼンチンがある。長い旅の末、日本が見えても何国に着こうとしても、身体の底から動かずには居られないような子供達の動きを見たことがなかった。私の一生を掛けた心にズシンと響く出来事でした。
 戦に負け、サッカーの世界選手権で負け、スケートは出来なくて、アルゼンチンで習った体操は直され、彼女達の国のいとおしくもあるのに不甲斐無さにすっかり気が滅入っていた子供達と、アルゼンチンの、日本の良い所、悪い所、しっかり見極めながら、二つの国の何かの役に立てるように、と話し合ってきた日々。
 「あ!マリッサが迎えに来てくれた」「ロレナもいる!」仕切られた税関の柵など無視されて、両方から走り寄って、飛びつき合ってしまった。そして会話、会話。
 日本から来たのだから、さぞ金目の物を持っているのだろうとの税関氏の期待にそわないスーツケースを、アルゼンチンの出入国には常に付き添ってくれる頼りがいのある仕事の友エクトールに渡すと、セリーナもルシータもベティナ、テレサ、ラクェル……のいるアルゼンチンです。日本からあまりに遠い所に私の本拠地があることが不思議な気がしたり、十六年前、初めてアルゼンチンに着いた日の、あまりにも可哀相だった私を経過していった年月があり、今こんなにも暖かくこの国に帰ってこられた。
 血の繋がりもない、民族も違い、習慣も、ふとめぐり逢ったにすぎないセリーナさんの私達に対する思いやり。
 十日間しかアルゼンチンに居られない私達と共に「一年分を暮すのだ」と毎食事毎、私達の好きな物を覚えていて、両手いっぱいに抱えて。七ヶ月間留守にして、植物も動物も、生きている物を拒否していた我家に、体温が戻ってくる。
 食物が無くて、火の粉の中を逃げたという、今の玉由より小さかった年令の父親の話を基にして戦争を考える玉由が、先進国といわれる日本より立派な街並を、立派な毛皮姿の人々が歩むブェノスアイレスで、「戦争に負けたのに皆どうして平気な顔をしているの?何か考えなくてもいいの!」と訴える。
 広大なカンポに、この国の人々の主食である牛達が見渡す限り。基本の豊かさが眩いばかりの国なのです。

 
 

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