アルゼンチンつれづれ(55) 1983年05月号
ルドルフ・ヌレエフ
幼い判断であったとしても、自分のことは自分で決める習慣が出来、身の回りのことだって、もう出来ないはずはない年齢になっている子供達に、それでも尚且つ深く係っているということは、どういう係り方をしなければならないかとの反省の多いこの頃。
限られた時間の内で「少しでも能率良く励んで欲しい」との私の押し売りは、ともすれば「お母さんがやってくれるのは当り前。お母さんは常に子供の為に控えている」という発想に傾いてゆく。そうなると「私は、貴女達のお手伝いさんじゃないんだから。善意でやっているのに、もっと謙虚な気持になりなさい」こんな繰り返しで、冬から始まって、春も夏も秋も日本に住んだこの一年間、移り変った季節のわりには、滞った目で子供達を見てきてしまったような気がする。
ただ何となく生きてきてしまっているなんていう生き方が、いかに情ないものであるか、私をくり返さないようにと、生まれた時から粘土細工のように、私の手の内で作りあげてきた子供達にも、ひと味違った付き合い方が子供側からも、私側からも必要になっている時期です。
フィギュアスケートを、体操を、選んだのだから、誰よりもスピード感にあふれ、高く跳ねそして限りなく美しくと、進歩をしなければいけない子供を育てるのが現在の私の全部の時間を占めるのなら、まず私が先に進み出て私の目が、美しさを適確にとらえ得なければなりません。富士山の見える部屋に閉じ籠って、安易に、惰性に時を過してしまってはいますまいか。
朝、私の窓から濃く見えた桜のピンクが、日が登ると共に、淡い色にやわらいできます。きっときっと、暖かさにさそわれて花弁が開いてきているのでしょう。そしたらその木の下まで走り寄っていって、開花のエネルギーに、私の心を弾ませてみましょう。
「夜に出かけるのは」と渋る気持をはねのけて、十数年ぶりに、日本の劇場の観客となった日。幕があいて「何かが通り抜けた!」とても人間が走ったとは思われませんでした。大きな驚きとなって、私の心に定着した一人の人間の走り方。その人の歩み。ただ立っただけで、人をひきつけてやまない。世界中のいろいろな次元の目を最高に満足させ得る人間、ルドルフ・ヌレエフ。彼と森下洋子の“ジゼル”と“白鳥の湖”とを観る機会にめぐまれました。
先天的に持ち合わせたものが大きかったのでしょうけれど、後天的な厳しい訓練でもって、眩しく輝くところにまで高まった二人を瞬きも惜しんで見つめました。人間の動きの心地よい美しさに、時をまかせて。
帰りの道々、ずっと「大変だ!大変だ!」と思い続けました。人間があんなに美しく動くことが出来るのなら、私の子供達も人間なのですから。
名前も経歴も知らなかったのだけれど、背筋がただごとではないと思いました。その人のところへ、私の幼かった二人を連れて、バレーのレッスンをお願いに行きました。私と同じように拙いスペイン語を話す人でした。 「ミイ・プリンセシータ・ハポネシータ」と常に彼の一番近くに置いて下さって、私の子供達は、やさしい彼の視線の中で5歳、6歳……アルゼンチンを出てくることになってしまった日まで。かってボリショイのトップ。マェストロ・ワッシル・ツピン。世界的なダンサーだったのです。ずっと後で知りました。
時々妙なことをしでかしながら、迷いながら、子供達に良かれと思うことを、今日も明日も。
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