アルゼンチンつれづれ(56) 1983年06月号

十ヶ月の留守

 茶渋が付いた湯呑みにハッとした。なんだか涙が零れそうになって、茶碗の糸底をゴシゴシ研いていた。子供達の父親が、ほんの時々やってきて一人で過した形跡。「いったいこんな生活をしていて良いものだろうか。」もう惑わないと決めたことなのに、思いを交差させながら、アルゼンチンの家のステンレスの部分を、住んでいた時のように光らせてゆく。
「冷蔵庫の中に腐る物が残ってなかったかしら」「まだ蕾が付いている鳶(いちはつ)を思い切って処分した。」新聞を断り、切符は!パスポートはと留守にする仕度はいっ気に終了させて。
 アルゼンチンでの生活がリズムに乗っていた時には、「日本へ行くのは嫌だ。」といった子供達が、今度は「練習が後れるから、アルゼンチンヘ行くのは嫌だ」と駄々をこねた。
 要するに、何国という大それた気持などなくて自分のリズムを乱すのが嫌なんだなあ。 「十日間くらいで、後れてしまう程の実だったら、もうやめてしまった方がましじゃないかしら」と強がってみせて、諸々の手続きの為に、三十数時間で、アルゼンチンまでひとっ飛びした。
 私のベッドもソファーも、白く掛けた埃よけの布を取りのけて、アルゼンチン国ブェノスアイレスにての五日間の生活の場を、掃除機と雑巾を持って。
 「ゴミ袋は、どこにしまっていたんだったかしら。」「セロテープは?」十ヵ月留守にしだけで、もうマゴマゴしてしまう。手当り次第開けられる所を開けてみて、「そうだった!この位置にて十何年間暮し続けたんだった。」と見つけだす。その辺りを太っちょのマルガリータがウロウロしていたこと、ちょっと家の中に故障があれば、すぐとんできてトントン音をたてていた管理人のガルシーア、届け物にきたアンドレスが、お昼のミラネッサを一つつまんでいたこと、由野は、どこどこまでもハイハイしていたっけ、玉由の友達が入れ変り立ち変り、そういえば、いつも誰かが私のアトリエに居侯をしていたなあ。
 私が地球を半周しての引越しに連れていったのに始まり旅行をした国々の物が加わった夥しい数の縫いぐるみ達を、ナフタリン入りのビニール袋より取り出して、以前の位置に。思い出も、会話も袋からとび出して、以前のままにつながってゆく。たちまち新しいナフタリンを加えて、袋に入れ直して、しまうのだけれど。
 子供達が、日本語を覚え始めた本、スペイン語の学校での絵、工作等、幼さが微笑みとなってしまう品々を坐り込んで見入ってしまう。
 日毎成長する子供達には仕舞ってはおけない着る物を処分してしまって、カラッポの洋服ダンスを開けて、ドキッとする。「日本へ引越していったんだなあ!」
 うろうろと、私の家をただうろうろとする。二ヵ月前に、ニョッキを届けて下さったレストランにて、テーブルが長くきれいに作られて。私の性格のまま媚びることも、遜りもせずに突き進んできて、それでも私を嫌いにならなかった人達に、とまどってしまう程、強く抱きしめられて、五日間では短すぎると、そう決っているのなら、密度を濃くと気を配ってくれて、ブランクの間のニュースが次第に大声になってしまうアルゼンチンの友達と集う。
 子供達が失望しない味の肉がある。チョリッソもニョッキ、メヒジョン、肉の厚いピーマンやプロボレータと名のつくチーズの炭火焼。ちょっと錆びていた私のスペイン語も、ワインと共によみがえってくる。
 「アルヘンティナ・サルー!」

 
 

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