アルゼンチンつれづれ(57) 1983年07月号

日本に来たハビエル

 スペイン語しか話せなくて生れ育った牧場の国アルゼンチンを未だかって一歩も外に出たことはなく、地球上の一番遠い距離を初めての飛行機に乗ってハビエルが日本へやって来ました。
 アルゼンチンで道場を開いている日本人の先生について十年来空手を学んできて気分一新、本場で働きながら技もマナーも雰囲気もと若者らしい希望のもとに。
 「事前に上手に計画してあるから六ヶ月間の日本滞在中のことは全部自分で解決する」と得々と彼。「せっかく私が日本にいる時だから時には食事くらいはしようね。」と今回のアルゼンチン訪間で、セリーナさんが開いて下さったパーティで出逢った時の彼と私との会話でした。
 J(ハビエル)「腐った豆から糸がでてくるの食べられないよ。」私「納豆っていうの、栄養あるのよ。」J「黒い紙みたいなのもだめ。」「海苔を食べると禿げにならないの。」
「どうして日本人は朝から野菜サラダを食べるの、鳥じゃあるまいし。」、アルゼンチンから東京へ帰り着いたばかりの私に日本に着いて戸惑っているハビエルからの電話が鳴り続けます。
 私「言葉も習慣もちがう日本に来たのだかう自国にいるような訳にはいかないよ、少しは我慢とか妥協とか、それに日本とアルゼンチンと違っているから面白いじゃないの。」 J「どうして自分が我慢なんてことをしなければいけないんだ。生まれてこのかた、こんなに一人ぽっちになったことはなかった。」私「日本に来る前からわかりきっていたことにぶつぶっ文旬を言うもんじゃないよ。」などなど電話のうちはまだよかったのだけれど、六ヶ月間居侯をすると決っていた言葉の通じ合わない日本人の家庭から、J「どうも歓迎されていない気がする」とスーツケースもろとも家出をしてきてしまい、女子供三人用に最低のスペースがあるのみの我家を許可もしないのにドデカイ外人男がウロウロすることになってしまった。
 それでも空手を日本を学んでくれるのなら我慢をしようと思ったのに「もう三十歳で日本式トレーニングを四時間も、とても身体がもたない。」とガニョガニョ歩いて帰ってきて、冷凍庫から氷をかき出して、あちこち冷していたまではまだ良いとしよう「アルゼンチンで、もっと合理的に練習をしていたのだから、日本で学ぶことは何もない。」と空手通いもやめてしまった。
 働かなくても何世代も優雅に食べてゆかれるアルゼンチンの前近代的な一族のハビエルのその人生考にけちをつける気は毛頭ないけれど、日本では通用しそうにない。
セリーナが私のことを「私の娘」と誰かまわず言っているのだから。そうであるならばセリーナの妹の子供であるハビエルと私は従弟となるわけで……とも思うし。知る人もなく、その国では赤ん坊ですら理解しているスペイン語が皆目わからなかった時があり、どこまでも続いていると思われたブエノスアイレスの町で、私の行かれる家が一軒も無いということに気づき、初めての住いと決めた九階の窓から加速度の加わった涙を石畳に落していた時をスッポリ理解できるのです。
 私の咳きを全部叶えようとすぐ奔走してしまうセリーナ。私への日本からのお客様も、両手を拡げて、彼女の出来る限りをしてもてなしてくれたこと。
 ギクシャクとして、空手を学び得なかったハビエルに今私がセリーナの様に彼の神経を休め日本に来たことを何かの面で良かったと思わせなければ。そして、彼の通用する国へ無事に送り返してあげましょう。

 
 

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