アルゼンチンつれづれ(60) 1983年10月号

玉由キャンプへゆく

 「こんなに小さくって、可愛く無力で、守ってあげなくては」と全神経を集中して育ててきた私の赤ちゃんが、いつから赤ちゃんであることをやめていくのか。
 スケートの早朝トレーニングの為に起す時「まあ!こんなに大きくなってしまって」と物理的な大きさに驚き、会話をすれば、私からの受け売りではない、彼女自身の発想でもって「いつの間にこんなことを!」と。
 小さな家で、女三人だけで細々と目先に追われて暮していると、何ということはないのに精気に欠けてきて、時々「ウーン」と伸びをしたくなる。
 年がら年中、建物の中に籠り、寒い寒い氷の上でのトレーニング。「せっかく夏なのだから、夏の温度の中で、夏の大陽に当って、夏らしくしてみようよ」
 直接スケートには関係はないけれど、走る力、跳び上る力、見知らぬ人達と親しくなってゆくという人間の基礎に出逢わせたい。
 ニューヨーク郊外、ウエストポートでの、トラックとフィルドのキャンプに、東洋からたった一人の参加だけれど、玉由を一人で行かせることにした。丁度ニューヨークで仕事のある父親とも逢えることだし。
 英語には困らない。飛行機には乗り慣れている。飛行機の中で書く入国カードだって、「こんなこともあろう」とだいぶ前から本人に書かせるようにしてきている。困ることに出逢っても、何とか自分で脱出しようと努力出来る頭も力も備わっている。手紙の遺り取りはしたけれど、見知らぬ所へ、見知らぬ人のもとへ十二歳の女の子を一人出すという心配は顔には出さず、ここは大船のごとく振る舞って、「同年代のアメリカの子供達と一緒になって、アメリカの大きな空のもと思いきり走ってくるといいよ。そうすれぱ、新しい気持にもなれるし、勇気も自信も自分の物になってゆくよ」
 玉由が三歳の時、日本の諺に忠実に「こんなに可愛いいんだもの」と、仕事の父親に便乗させて、日本へ旅立たせた日のことが蘇って会話になる。玉由「今まで言わなかったけれど、今でもあの時の寂しかった気持絶対に忘れられない」私「三歳にして生涯忘れられない寂しさを知ったのね、今度はもう十二歳なんだもの、何でも出来ることは一人でやってゆかなくては」
 由野「飛行機が落ちないように気を付けな」とボソリ。玉由「落ちないように自分では気を付けようがないけれど、どんなことがあっても最後まであきらめないで死なないようにするよ」旅行が決ってから「海に落ちても死なないために」とセッセとプールに通っていましたっけ。
 「お湯を下さい」といって飛行機でもホテルでも飲めるようにとインスタント味噌汁をいっぱい、梅干、おむすびと純日本人的にカバンを満して、常の日と同じ服装で、常の日の顔をして出かけていってしまった。
 「お母さんの面倒をみるんだよ」と玉由に頼まれた由野は、体操が終ると一分でも早く「お母さんが寂しがるといけないから」と品川駅からはダッシュで帰ってきてくれる。少しくらい意気地がなくったって、私の目のとどくところで健康に、安全にいてもらった方がどんなに楽だったか。ニューヨークの辺が恐しい所と聞いたし、読んだ。それでなおかつその辺にやるなんて無謀。ひたすらクヨクヨする私をよそに、「玉由が帰る日には白いご飯(となぜか注意つき)となめこ汁となっとうで待っていてね」とはニューヨークからの電話です。

 
 

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