アルゼンチンつれづれ(63) 1984年新年号

酉の市

 「日本の人と同様に、日本語を使いこなして欲しい。」と願ってやまない、幼かった二人の子供の手を引き、看板、駅名、広告など読ませつつ、その文字についての解説や脱線話も……と旅行者の身分で歩いたこともあった日本。
 今、東京での生活は、子供達が道を歩くことに関しては独立してゆき、私一人のことが多いけれど、ちょっと昔の癖が残り、気が付くと、視力の隈り町の字を読んでゆく。
 何語なのかわからず、その意味はチンプンカンプンといった片仮名が非常に多い。
 教わる文字、思い出す言葉、困惑の活字。日本語が、ずいぶん読めるようになった子供達が「こんなの読んでいるんだな。」とポルノ擬いには伏目がちに、憤りも覚え。ポルノ規制のゆきとどいたアルゼンチンで子供を育てる方が楽だ。
 いつぞや満員電車の中吊を見て「あんな所で裸にならなければならない理由がないよ。」と大きな透る声で玉由がいいました。車中の視線を一斉に感じる。好ましきこと、悪しきこと、子供に対して逃げ隠れせず、正々堂々と対処してゆく以外ありません。
 “とりのいち”と仮名が振ってあったから楽々読めた気になったけれど、「酉の市」とはいったい何なのか。耳からも目からも日本語が入り込んでこなかった長い年月が、ズシリとのし掛かった。私の年齢にして、「知らない!」とは言えないであろうことも、「それは何だ!」と平気で叫べる性格が唯一の救いとなっているのだけれど。
 立派に墨で書かれた「酉の市」の横に、最寄りの駅も道順も書いてあったから、「行ってみよう。」と決めた。
せっかく近くなのだからと、アルゼンチンやブラジルからのお客様を案内することが多い“浅草の観音様”にもお詣りして……と雷門を通り、中見世に心を踊らせ、人形焼にとびついて、まだホカホカのをほうばってしまう。線香の煙を、涙も咳も出るまでかぶっての願いごとは、「子供達が目的を達せられますように。」観音様も少しは分担して下さる気持がして、五重塔を晴やかに見あげ、目的 おおとり
の鷲神社の方に向う。
 青竹で出来た巨大な熊手を担いだ人との擦れ違いが多くなるあたりから、子供達を連れて来たならば気が転倒してしまうでしょう。縁日の露店が続く。杏飴、ソース煎餅、ベッコウ飴、カルメ焼は焼きながら。それぞれの店に、小さかった頃の思い出があり、海ほうずき屋さんまであって、“グギュ、グギュ”と鳴らしながら歩く。さざえ、蛤、焼鳥、だんご……みんな匂いを大きく広げ。日本の人々がいて、日本の匂いに満ち、江戸時代に続く日本風の催物の中にいるにもかかわらず、旅行をしたニカラグヮやメキシコ、ボリビア、ホンジュラス等、日本から遠い土っぽい国々の迷路のごとき市場が醸し出す波長がよみがえり、ふと戸惑ってしまう。要するに「みんな、みんな人間なのだ。」
 そして、熊手のアーチの中へわけ入る。その細工、色、願い、のものすごい集合に、「こんなに凄まじく物を欲して、引っ掻き寄せる。」などということを知らずに来たのだから、呆然とするばかり。
 おいしい日本のお米を、子供達が充分にいただけますようにと、実った稲穂を一房付けた熊手を小さく一つ買いました。
 「子供達も運れてゆきたかったなあ。」「お母さんは、その年になって初めて行ったんでしょ!玉由にはまだまだよ」「神様に頼んでいるだけじゃスケート上手にならないってお母さん教えたじゃない。」目指したことのみに脇目もふらない私の子供達は、幸せなのか、不幸せなのか?

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。