アルゼンチンつれづれ(65) 1984年03月号
言葉
玉由「お母さんは、子供に三つも中途半端な言葉を持たせちゃって!完壁なのが一つも無いってことは、心細い気持になるよ。」
私「貴女の年令にしたら、三つとも半端というより当り前のレベルなんじゃないかしら。日本に来た時、小学二、三年の国語の実力だったけれど、今では年相応六年の教科書をやっているんだもの、そんなに日本語について卑下することないと思うけどな。」
玉由「そういえぱ、このところ漢字のテストずっと百点取っている。」
私「学校で基本を習っておけば、いざ必要が生じた時、広い範囲に気付くようになり、忘れないものとなってゆくのよ。」「そう言えば由野が、アルゼンチン式算数と、日本、アメリカのと方法が違って戸惑っていたけれど、どちら式でやっても答えは同じだって気付いて、それから楽になったみたい。」
玉由「アルゼンチンで小学生を始めた頃、スペイン語が良くわからなかったお母さんが算数だけは教えて下さったものね。」
私「アルゼンチンの学校の父兄会の時、先生に“こんな小さな子に三つも言葉を使い分けさせると混がらがってしまう”と注意され、その時まわりにいた父兄も声をそろえて“かわいそうだ”って、だけど私は、子供達がいろいろな言葉が話せた方が幸せだ、それには小さい時からでなければ、と信じてしまったから我武者羅に今に至る。」「家族だけで話す時は日本語、絶対にスペイン語が混っちゃいけないって。何がスペイン語か日本語かも訳のわからない小さかった貴女達を、往復ビンタまでして教えたあの頃。私が持ち得なかったものを、子供達もまた憧れとして生きて欲しくなかったのだから。」
玉由「今、日本でスペイン語の機会が少なすぎるから、家族で話せばいいんだけれど、あんなに叱られたから、お母さんの顔をみてスペイン語を話す雰囲気にはならないね。」 私「話は変るけれど、いろいろな国の顔をしている人の、そういう時は何語で話したら良いかって、どうやって決めるの?」
玉由「一番はじめに相手が話した言葉で話すのよ。」
私「一人でアメリカへ行ってきてから、がぜん英語が上手になったみたいね。」
玉由「学校の先生にもそういわれるよ。」生まれてこのかた、家族で一番小さいから可愛がり、いたわらなければと自他共に甘えていた由野が、体操の遠征でハワイヘ行く機会がありました。玉由を一人で出した時とちがい、由野の場合はコーチの引率があるのだから、何も心配はしませんでした。
夏の国から帰る子に、アノラックを持って成田に出迎え、弾じけるような由野に逢えました。由野「あのね!英語がとても良くわかった。」「体操のお友達が“ゆのちゃん助けて”って皆の通訳をしてあげるのに忙しかったの。」「コーチが、“由野はスペイン語だけかと思ったら、英語もわかるんだね”ってびっくりしてたよ。」
日本から言えば外人のの顔をした人々の中で生れ、その習慣で育った玉由と由野にとって、外人の中に居るということは“ホッ”とすることなのだと思う。「チキティタ・デ・オーロ。」(私の宝)と抱きしめて育ててくれたマルガリータ。「ミ・ニェッタ。」(私の孫)とセリーナ。「トゥ・ティア。」(貴女の伯母)とはラクェル。
玉由と由野にとって私から離れて外国へ行ったということは、淋しく、心細いことではなく、目をキラキラさせ、自信を持って帰ってきた。
さあ、日本に対しても、そんなに遠慮しないで!どの面から見てもおかしくない日本人なのだから。
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