アルゼンチンつれづれ(77) 1985年03月号
思いあがり
高輪の空高く九階に住んでいた時は、建物が交通の激しい第二京浜国道に面していましたので、数珠繋ぎの自動車がたてる集合音“ゴー”が四六時中。晴天の日も“豪雨か”“嵐”かとばかりに。その上、品川駅に発着する諸電車がレールをゆさぶり、扉開閉の空気音、駅のアナウンス。建物の真下を、快速力の新幹線がゆく。とまあこの世の地獄のような騒々しさで、折角の二重窓も何のその。住み始めの頃は、とても寝られたものではありませんでしたけれど、東京とはこんな所とのあきらめと、慣れもするもので、いつの間にか終電後フッと静かになったりすると淋しくさえなったものでした。
訪ねて来られた方達は、こんなに高く、こんなに喧しく、なおかつコンクリートで固め尽した所によく住んでいられるものだ、とびっくりされていたようでした。
今度の建物も、東京の真中、交通量の多い明治通りに沿ってはいますが、建物と道路との間に、少しゆとりの広さが取ってあり、私の窓が幸い道とは反対の新宿御苑側であることも加わって、町の真中とも思えない静かさ、木々の見える日を穏やかに重ねていましたのに。
ある日より、ピアノと歌うというでしょうか、凄まじいソプラノが聞えるようになりました。
始めの頃は「良く練習するなあ。」と感心したり「上手だから、かなりの専門家らしい」なんてやさしい気持でおりましたけれど、子供達が学校へ出かけてゆき、ほっとして“さあ!”と思う時刻に始まって、訓練を重ねたのでしょう強い指で弾くピアノと、当人以外にはありがたみのないお腹から押し出す声が一日中。わけのわからない人の、わけのわからない音に、私の頭も心もかきまわされ、短歌や文章を書くどころではなくなってしまいまして。
「こんな音をたてますけれど。」と一言挨拶があれば、単純の私のこと故、なるべく外出したりとか何とか気持をやりくりしますのに挨拶はありません。
まず子供達が慣慨しました。「いくら偉い音楽家だとしても、こんなに他人に迷惑をかける音をだすなんて許せないよね。」「引越してきたばかりで、また引越すわけにもいかないし。」「今時、防音装置とか、いろいろ発達しているのに、一日中大きな音を出している専門家が、そういう設備をしないなんて非常識というか、考えられないよ。」
私の絵を描く友達も、我家でのデッサン会の三、四時間、見知らぬ人の大声を聞かされ続け、ほとほとやりきれなく、「絵っていいね、音をたてなくて静かに描けるから。」
今の日本は“ピアノ殺人”とか“隣近所”“モラル”……といろいろ書かれ報じられているのに。見も知らぬ人々が集まり、重なり合って住む都会の真中の建物の中で、「自分は特別である。」とばかりの住み方をしている人と巡り合わせたのは運が悪かった。
都の騒音苦情課に相談しようかしらとも、私の空間を守ろうと、うろうろ歩き廻る。思いあまって管理に相談し、私の真上の部屋、音楽大学の先生で、生徒が習いに来ているということを知り滅入ってしまう。教えるという立場の人が、ご自分の作り出している音がまわりに住む人達にどういう影響を与えているか、ということも理解出来ないなんて。教育者、音楽家などとおこがましい。“思いあがり”を自分自身にもみつめる機会となっています。こればかりは慣れるわけにはいきません。
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