アルゼンチンつれづれ(76) 1985年02月号

貫名海屋

 常の日の買物の道に、たこ焼、焼ソバ、綿菓子…と屋台が並ぶ仕度をしています。「どうしてこんな所に?」と屋台を辿ってゆくと、呆気ない近さに明治神宮の北参道の入口がありました。初詣での人出を目当の屋台と知りました。
 原宿、表参道側からは、お参りというより散歩、スケッチ、いろいろな野鳥に出逢う楽しさもあり、玉砂利を歩くのもいいもの、その明治神宮のこんなに近くに居るなんて。
 子供達の父親の伯父、叔母は、普通の学校、普通の生活をすることなく、幼小より御所の中で育ったということです。御所の中がどういう生活であったか、ということは絶対に話してはいけないということで定かではありませんが、後に普通の生活となった伯父、叔母の所へ、私の結婚前後、アルゼンチンヘ行ってしまうまでの短い時でしたけれど、何度も遊びに行きました。伯父、叔母の立ちい振るまい言葉使い、見とれているのが好きでした。みごとに美しい日本でした。
 行儀、辛抱、絶対服従……を教え込まれたでありましょう伯父、叔母は、気取ったり、定まった型の中へ入りきれない粗っぽい私とも上手に合わせる術をこころえていて、とても仲良しになれた気持がしていましたが、アルゼンチンヘ行っている間に、亡くなってしまいました。明治天皇のお傍の、あの方達と小さな接点があった幸せを今、思います。
 貫名海屋の子供、海雲は昭憲皇太后の漢学の先生でした。私の子供達の、ほんの少し前の先祖です。
 アルゼンチンから帰ってきて暮す部屋に、皇太后から賜った屏風がありました。それを広げて、日本での生活を始めるのが常で、ハイハイの頃の子供に、これにさわったり、汚してはいけないことを教えました。子供達の時期はずれの七五三の写真も、その屏風で写しました。そういえば、「結婚式なんてしたくない」と泣いていた私に、「それでもまあまあ」とその屏風の前で写真を写した日がありました。
 長く日本を離れていて、近くに何があるのか、ということも、とっさには思いつかないまま、とにかく学校の近くに引越すということだけ決めると、朝、高輪の家から学校へ出かけてゆく子供達に、「代々木の方へ帰ってね」と私。「今度のお家はどこなの?」と代々木駅から電話をかけてくる子供。「あ、そうか、子供に家をまだ教えてなかった!」
 「そろそろ、お母さんが何か始める頃だと思っていたよ」と冷静なのは子供達。
「どうも家の近くに、スケートリンクがあるらしいよ」「行ってみるか」何気なく行ってみたのが、設傭も、氷も素晴しく、「こんないい所があるなんて、ここですべりたいなあ」との玉由のつぶやきに、またまた私の突進。
 たちまちそのスケートリンクの会員にしていただき、後で気が付いたのだけれど、明治神宮スケートリンクとは、初詣に四百万人もの人を引きつける日本一の明治神宮の管轄だったのです。
 いろいろな思いが湧き出してくる明治神宮で、早朝六時から、遅い日には夜十一時頃までもすべらせていただいています。選手養成に心を砕いて下さるありがたいリンクです。 私の単一セリフ「はやく!はやくして!」の行き場がなくなってしまったくらい張り切って練習に通っている玉由。日本に来て偶然の良いことにめぐりあっています。

 
 

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