アルゼンチンつれづれ(82) 1985年08月号

セリーナ

 毒虫に刺されることなく、恐しい目にも逢わず、とっくに花は終り葉が茂っているばかりのハカランダの道をサンパウロの空港へ。 アルゼンチン、ブラジル、パラグヮイと三国の接点イグヮスを経由し、最も最色に興昧のある地域は昼間の飛行機を選びアルゼンチンヘ行くのです。
 「途中、アマゾンの樹海がすごいよ」以前幼かった子供達は子守りのマルガリータにあずけ、一人で何度もブラジルへ往復し、その都度興奮したアマゾン一帯を玉由に見せたい。
「もうすぐ、ものすごい樹海よ。こんなもんじゃなくて……もっともっとすごいの…」と飛行機の窓にへぱり付いて武者震いしているのに、以前のおし寄せてくるような樹海はどこえやら……。“飛ぶコースが変ったのかしら”それとも“あんなにすごかった樹海を人間が攻め入って、恐しさを追い払ってしまったのかしら”箱庭のように、世界一というイグヮスの滝の水煙が見えると、もうジャングルはおしまい。持って行きばのなくなった武者震いは、あれこれ「地球のゆく末」へと考えまぎらすのです。それにしても、何というアマゾン地域の変りよう。
 ブェノスアイレス空港。
「やっぱりセリーナ、迎えに来てくれた!」派手に抱きついて、チュッチュッチュッ、キスキス……。「長い間一人にしてしまってごめんね」と私。「もっと何度もアルゼンチンに来なくちゃいけない」と涙を流してくれるセリーナ。
 地球的迷子、難民……わりかしかわいそうな言葉で語るにふさわしく、私達がアルゼンチンに着いて以来の付き合い。保護者。私にとって、アルゼンチンすなわちセリーナ。
 アルゼンチンで仕事が出来、子供達が生まれ、友達が出来ていったのは、みんなみんなセリーナ。セリーナに恥をかかせないようにと思って生きてきた。
 お互いスープの冷めない距離に住み、私達のすることには何にでも参加したがり、口出しし、焼もちをやき、気位高い女王のような人が、私の売る喧嘩、我儘には「ユリが言いだしたらしょうがない」とさっと折れ、私をどこどこまでも甘やかしてくれた人。
 玉由がまだ「セリーナ」とも発音出来なかった頃「リー」と呼びました。幼ない口で玉由が「リー・タカヤマ」と言った日より、セリーナは「タマユが私を養女にした」と大変なごきげんで、それ以来、会う人毎に、私を「ミイ・イーハ(私の娘)」、玉由と由野は「ミイ・ニエッタ(私の孫)」と紹介することとなりました。
 玉由が生まれた日、セリーナの曽祖父が創始者であるアルゼンチン一の保養地マルデルプラタの海が見える牧場を「ユリの赤ちゃんに」とプレゼントしてくれました。私は、そんなにすごい物を戴くようなことをしてませんで、今だに「あげたんだから」「貰うわけにはいかない」ともめていますけれど、セリーナの心を、どんなにうれしく戴いたことでしよう。
 女王のごとく生きてきた人に、私がどうのという実力はありませんけれど、「セリーナが困った時」私達の出来る限りのことをしようと子供達とも話しています。
 「セリーナが居なかったら、アルゼンチンに来る意昧はない。異民族で、ふとめぐり逢ったにすぎない人が、どうしてこんなに玉由のことを思ってくれるの。今度逢ってみてつくづくわかった。ほんとうにあったかい人、ありがたい人。「お母さん、セリーナにめぐり会えてよかったね」と玉由、アルゼンチン14歳。

 
 

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