アルゼンチンつれづれ(89) 1986年03月号

セリーナの日本

 アルゼンチンで生れて七ヶ月。けれど私の赤ちゃん玉由が日本人であるという確かさが欲しく、日本へ連れ帰り、日本のパスポートを貰いました。私の育った家も見せました。畳の上をハイハイさせました。七ヶ月なりの日本の味を食べさせました。
 私がアルゼンチン人ではないのに、アルゼンチン人としてだけ育ってしまうのが怖かった。アルゼンチンで育つ限り百%アルゼンチンの必要があるけれど、百%日本でもあって欲しかった。そのことに関しては、たいした情熱を持って取り組んだ時があったことを懐しく思い起すのですが……。日本を欲ばって、アルゼンチンヘ戻るのがのびのびだった私達を「セリーナが迎えに来た」というのは十四年前のことです。折角だから日本を案内しようと、玉由を母にあずけ、セリーナと私、寝台車で行った飛騨高山を皮切りに、加賀金沢、京都、鳥羽、牛の国の人に日本の牛を見せるべく松阪、そして私の両親の家。十日間程の真冬の旅でした。セリーナの日本語は“アリガトウ”唯一つ。何処に居ようとも堂々と自分を押し進めてゆく彼女を、一分だって一人に出来なくて、寝ること、食べる、洗面、風呂、こと細かに付きっきり、私も従のタイプの人間ではないから、私「もう金輸際貴女と一緒に日本を歩くのはいや」セリーナ「私に逆らうの!」……と日本列島喧嘩旅みたいなことで。……決してあの時のことを忘れた訳ではないけれど、私も、もう怒らないでいられるかな……とセリーナ七十才二度目の日本へと招きました。
 外国のお客様に「ウチのバスルームより小さい」といわれるくらいの我東京仮住いのスペースでは、セリーナに泊ってもらえず、我家より一番近いホテルを日本での場所にしました。その小さなホテルに落着いた彼女のスーツケースから出てきたのは、「日本ではアルゼンチンみたいなパーティなんかないからね」と言っておいたのに、カクテルドレスが五、六着。各々に合わせた靴、ハンドバッグがその数だけ。カクテル用のコートまで。「寒い季節だから、“寒くないように着る物とよく歩ける靴だけで来ればいいのよ”って言ったじゃない」と思わず叫んでしまった。パーティ以外のことが考えられない階級の人。 朝の食事にホテルまで迎えに行き、夜一日のことが終ると送りとどける、学校や練習の間にちょっと子供達が現れることもありましたけどとにかくぴったりと過しました。
 私は彼女の習慣を知っていますから何なく通過出来ることも、一歩外へ出ると大変。朝の紅茶に金気のある物を使わないこと、牛乳が一滴要ること。その一滴の為に、世界中で喧嘩を売り歩くセリーナ。沸かしてない生の牛乳でなくてはいけない、ということが重大でたった一滴に“生”か“沸かしてある”かを見分ける執念を持っている人。
 「日本では、こうよ」と言えば「ノー、自分はこうだ」と媚びない人。
 非常にいやなんだけれど、日本風にせざるを得なかったのが、靴をぬいで家の中に入ること。ぬぐ度にブツブツ言いました。ブェノスアイレスの家では、子供がハイハイしたりもする生活で、私はどうしても靴のまま家へ入って欲しくなかったのに、絶対にぬいでもらえませんでした。洋服は靴をぬいだら様になりません、お酒落に情熱を注ぐ人。
 一度も使われることがなかったパーティ用品の間に間に、日本での品々を詰め、別れに泣いてしまう人。また喧嘩してもいいから、干柿食べ食べ日本を歩こうね、セリーナ。

 
 

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