アルゼンチンつれづれ(88) 1986年02月号
自分で車を
「日本にいるのはいつまでかなあ!」と漫(そぞろ)浮足がたつこの頃。「日本で何をしておこうか?」「この次行く国への仕度は!」何処へ何時、と決めた訳でもないのに、一つの所にしばらくじっとしていると何だか移動をしないといけないような気がしてきてしまう。「幾つになったら落着いた大人の生活をしたいと思うようになるのかな」と自分のことをそんな風に思いつつ。
今までの生活で、「自分で車を運転する」という必要にせまられたことはなかった。常に運転してくれる人がいた。タクシーに乗りやすい所に住んでいた。けれど、新しいことに向ってゆこうか、というこの時期、人間一人移動するのに車という、地球を消費することもいとわず、ぶつかれば人が死ぬ、自分が死ぬという観念は捨て去り、当然のごとく排気ガスを撤き散らすという人並のことをしてみないわけにはいかない気持になってきた。 アルゼンチンに住んでいた時、もうほとんど十年前のこと、何の風の吹きまわしか、「車を運転する」という使命感をもったことがありました。町の中の人々が行き交う普通の公園を教習場所とする自動車学校へ三、四回通い、石畳道をガタピシ前方には進めるようになった時、「上手になりました」と車が後に走れることも、車庫に入れるという操作も知らないまま、ブエノスアイレス市認可の車の免許証の持主となってしまいました。
いくらなんでも町の中では通用しないことを充分に知っていましたので、田舎へ出かけた際、ここなら泥を蹴散らしても、トウモロコシの一、二本ぶったおしたって、まあたいした害にもならないから、とやおらハンドルを取り、おっかなびっくり進み始めた時、鵞鳥の行列が我車の前方を横切り始めました。よもや生き物がという時点で生物の登場、「鵞鳥も死んではいけない」とそれ以来、私の免許証は仕舞い忘れられることとなりました。今東京で、色あせかけている自分のカラー写真もなつかしく、あれからもっとにぶっているはず、やめといた方が利口とは百も承知だけれど、こんなにも沢山の人が平気でこなせることが私に出来ないというのも非常にしゃくにさわりだした。「ひとつやってみよう」山の手線から見える所の教習所の教習生となりました。私の場合、免許証は持っているのを“ちょっとさびているから練習する”というコースに入ったわけで、先生もその辺のレベルでいるのに「さあ行きましょう」と言われても、何をどうすれば良いのか何もわからない。先生「ハンドブレーキを引いて!」私「え、それはどれ?上にするの?下?」先生「ブレーキをふむ!セパレーターレバーをPに!エンジンをかけて!」私「右にまわすの?左?」……「あ、大変、動いちゃった、どうする、どうする!」……「こんなせまい所で、いっぱい車が動いてて、どうしてぶつからないでいられるの?」一時間の教習時間中、ブレーキとアクセルと踏みまちがえること幾度、日本の法規を知らない。セレクターレバーをRに合わせると「ワー、本当に後に進む」と感激してしまう。「そんなに遠く走る必要なんかないんだから」と思うし、教習所という囲いの中でこの仕末、外にでて延々の渋滞なんてとても正気で対処出来ないと思えてくる。
世の中の人が皆、自転車に乗ればいいのに、遊園地のみたいにぶつかっても「やあやあ」なんて速度にしてしまえばいいのに……
「不便な新しい生活を始めようとするよりこのまま日本に居たっていいんだから……」「アルゼンチンヘ行けば、何ってことなく暮らせるのに……」
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