アルゼンチンつれづれ(129) 1989年08月号
日本のおばあちゃまたち
「日本のおばあちゃま達に逢いたいな、もう二年半も逢ってないよ」と子供達。
「そうだ、今年の夏休みは、おばあちゃまへ直行しよう」
「もう幾つ寝ると夏休み」幼児のごとく数え始めた日数は、たちまち消化されてゆき、そして、梅雨の日本の田園調布のおばあちゃま宅にどやどやとカリフォルニアが入り込んだ。「しっかりおばあちゃまと過ごすのだから」
田園調布のおばあちゃま、すなわち子供達の父親の母、八十三年前の丙午生まれ、名は福子。女学校時代は、土屋文明先生の教え子というタイトルあり。歯科医師生活六十年、診療し続け、立ち続け。従って、根性、足腰の強いこと。私も子供達も一緒に歩くと「意気地なし」と叱られる。最近、目と耳が多分に不自由と申告ありだけれど、「大きい字で手紙書くから大丈夫だよ」と由野。「玉由は声が大きいんだから、気にしない、気にしない」と玉由。
現在は診療をやめ、跡継息子(子供達の伯父)の診療室、技工室の「お掃除バアさんになったのよ」と新しい職業にいたく御満悦。共に住む長男の嫁は「私が掃除しないみたいでいやだわ」と陰の声ですが、そんなのは聞こえない部分に入り、何のその。
福子さんの歯科医学生時代は、原宿に家がありました。人っ気のない、うっそうとした所だったそうです。まったくの偶然とはいえ現在、私の弟、今泉邦良のフォトスタジオがある所が、福子さんの若き日の住いだったそうです。
玉由・由野が日本に住んだ間の学校は、原宿にあり“校庭が表参道”といった雰囲気で、あまりに時が隔たり、町の様子が変ったとはいえ、おばあちゃまと子供達は、原宿という共通の所へ、手を取り合って散歩に出かけるのを見とどけると、私は、もう一人のおばあちゃま、すなわち私の母米子さんが気がかりで、御馬に来ています。
子供達からは、「いつおばあちゃまに逢いに行っていいの?」と電話が掛りますが、私は咄蹉に「来てはいけない!」と言っていました。
玉由に困った時、離れ住む父親に、私の子育ての失敗? を知られたくなく、自分を盾に玉由をかばい続けたのでした。結果が良かったか悪かったか……多分、本当の姿を見せ合うのが親子であり、家族であるのでしょうが……。
そして今度は、母をかばってしまった。あまりに悲しいことだけれど、今の母に「逢う」という言葉はない。「病に苦しむおはあちゃまを見せる」そんなこと、おばあちゃまと子供達と両方の立場にたって、出来ない。私が、母になりかわって考えると、「病んでいる姿を人に見られるのはいやだ。信頼のおけるお医者様がいてくれたら、一人密かに苦しみたい」
美しく、けなげな、人のことばかり考えていたおばあちゃまが子供達の心にしっかり入っているのだから、そのままのおばあちゃまを、ずっと心に持ち続けさせたい。
人間ということの本当の姿を子供達に見せるのが、私の子供達に対する義務かもしれない。このことで、子供達が心足りない人間に育ってしまったらどうしよう。私の一世一代の取り返しのつかない大失敗になるかもしれない。だけど、今の母を誰にも見せたくない。私が守ってあげられる母の最後のプライバシー。
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