アルゼンチンつれづれ(133) 1989年12月号

瑠璃子姉

 瑠璃子姉、闘病の彼女は、私の心を常にぎっしり埋めていました。そして、細かいことにも激しく揺れ動き…彼女が、私の心を限りなく人間へと導いてくれました。
 そして、そして、そっと亡くなってしまった。二十年間病いが彼女を支配して。
 私達六人兄弟姉妹の上の方三人と、下の方三人は、人種が異なるくらい離れて育ったような気がします。
 年令の差もあり、三チビが活躍を始めた頃には、上の三人は、学校のため、他人のご飯を食べるため、と名古屋の知人に預けられていて、夏、冬休みに帰ってくるくらい……家に帰っている長姉は、二階の和室で琴を弾いており、瑠璃姉は、和室とは一番離れた洋間でピアノを弾いていた。私は、和室へ行って琴を教えてもらうみたいな邪魔をし、洋間へ行って瑠璃姉のまわりをウロウロし……もう姉達がそれぞれに上手なんだから、今さら私が……ということで、もっぱら木登り、蝦蟹取り、庭の草々遊びに励んでおりました。長兄は、ハレモノみたいに大切にされていたから、私には反発することしか残っていなかった。
 喧嘩をしたり、ゴチャゴチャ兄弟姉妹らしくという次元ではなかったうえに、姉達二人は、あっという間にお嫁に行ってしまい、母が、あまり里へ帰らなかったみたいに、母に育てられた姉達が、家に帰ってくることもあまりなかった。
 私が、学生として東京にいた時、転勤の多かった義兄が丁度東京の支店長で、この時に妹として瑠璃姉から充分に姉を味わった。
 ゴルフもスキーも音楽会も、おいしい物の食べ歩き、何やかやパーティに……とにかく瑠璃姉の後から付いてゆき、学生の身分では昧わえないようなことを経験させてもらっていた頃、出来心で、アルゼンチンヘまでも引越すことになってしまって、その国が、地球上のどの辺にあり、どんな様子なのかも調べる知恵すら持ち合わせていないような幼さのまま、船に乗って四十五日間、着いてしまったアルゼンチンで、案の定、私が生きているうちで“今日が一番淋しい日かしら”“明日の方が、もっと淋しいのかな”……と途方にくれているところへ、瑠璃姉が、せっせと本や雑誌を送ってくれた。日本語の本が買えない国へ。どんなに、どんなにうれしかったことか、だのに、ある時、本は送られて来なくなった。瑠璃姉の病気。その時、脳腫瘍という予備知識は、私には何もなかった。ただただ、はるか彼方から思った。瑠璃姉の病気は私の病気。瑠璃姉の苦しみは私の苦しみ。瑠璃姉の淋しさは私の淋しさ。瑠璃姉のやさしい愛らしさは私とはいわれないから、その上等の部分を瑠璃姉に返せば、瑠璃姉は私そのものだ。
玉由は、生まれたその日から、私の唯一の日本語の話し相手として、璃璃姉のことを聞き続けてくれた。
最後になってしまった瑠璃姉を見舞ったのは、母の忌み明けに日本へ帰った時。弱っている瑠璃姉に、オタオタ動揺する私を、玉由が「瑠璃姉ちゃんの所へ行かなければだめ」と励まして、吉祥寺の病院まで付添ってくれた。「玉由も、由野をこんな風に思うのかなあ……」と。
 外国で、誰に遠慮することも叱られることもなく、勝手気儘に自分の心を動かす癖がついてしまった私はだめです。子供達まで巻き込んで今は、瑠璃姉への涙をこぼしているばかり。

 
 

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