アルゼンチンつれづれ(144) 1990年11月号
由野の独立
“アメリカに住んでみる”ことについて、私は由野の意見というのを聞くことを忘れていた。“玉由がアメリカヘ行きたい”ということと、“子供達の高校生活はアメリカで”という私の勝手気ままな一人よがりだけで……。私、すなわち親が、自分の子供に良かれと思うことは、子供への絶対の選択であると信じきっていた。
「お母さんが『また引越しよ』と言って、何処へ行くのかもわからないようなまま連れてこられたのがアメリカだった」と由野が嘆いていることも意に介しはしなかった。
由野が高校二年の中頃、玉由の時と同じように、アメリカの高校終了検定試験を受け、「パス」の通知が届くと、「もうアメリカを卒業したい。ヨーロッパヘ行って勉強したい。一人で行って寮に入るから」と。
私と玉由が、小さい由野、弱い由野、異民族の中で傷つきはしないか……と全身で庇い続けてきた由野が、初めて自分の意見を言って実行しようとしている。
それからは、由野の孤軍奮闘。ヨーロッパヘ行くべく学校探し。イギリスやスイスの学校と手紙のやり取りがあり、アメリカでの成績、健康診断書、先生方からの推薦状……そして、スイス、レマン湖の辺りのインターナショナルスクールに高校三年生として入学が決まった。
最後まで、思い留まらせるべく説得をしていた玉由が、由野の意志を変えられなくてイラついていた。「由野はバカだ。親や姉妹と一緒に生活出来るのなんて今のうちだけなのに。玉由だったら、少しでも長くこんな家族の生活をしていたい。わざわざ自分で早々と出てゆくなんて」「もうこれで赤ちゃんの時から一緒に暮してきた家族の生活ってなくなるんだね」「由野が、こんなに大きくなるなんてゆるせない。あの子は赤ちゃんでなくちゃいけないのに」「大人になるのはいや。大人って、淋しさを知ることなの?」と玉由。 どうせ、「やっぱりやめた」なんて言いだすだろうと思っているまに、由野のスーツケースはどんどん膨らんでゆき、そしてとうとう、本当に行ってしまった。
「淋しいね。淋しいね。由野がいないなんてこと信じられない」。いつまでも、あきらめきれないで涙を流して由野を送った玉由。 自分で考え、自分で実行するという新しい経験に喜々として、後なんか振り向いてもいられない由野。私の顔ばかり見て、何一つ判断しなかった子が地球単位での行動をする。嬉しいというか、ほっとするといえばいいか。十七年間続いていた私の、由野のことを考えてあげる部分が急に、もう決めてあげなくても良いんだ……。思えば、私に出来ることは全部した。言うべきことも全部言った。もうこれ以上可愛がりようがないだけ可愛がった。
由野について、思い惑うことは何もない。 そして、自分が父母の家を出ていった日のことが思い返される。出てはいったものの、東京からだったり、アルゼンチンから、ロサンゼルスから……とにかく“父母の許へ帰る”ということが私の生活の焦点だったような気がする。
私も、地球に散っている私の家族が、帰ってゆくべき心地よい場所となって待っていてあげなくては、と思う。「何をしてあげたら喜ぶかな」「何を作って食べさせてあげようか」。喜びそうなことばかり考えて待っているなんて。もう待っている。
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