アルゼンチンつれづれ(145) 1990年12月号
「地球にて」
私の歌集「地球にて」が、引越ししたばかりのサンタモニカの家へ航空便で屈いた。
赤い“ハナギレ”も可愛らしく、土屋文明先生や御津磯夫、今泉米子……の歌集を作ってこられた石川書房の石川靖雄氏が、あたたかく見守りつつの清々しい本。
出来上ってきたものを喜んで、一人シャンパンを飲んだ。そして、その華やぎが過ぎると、ノンフィクションの自分を活字にしてしまった“不敵さ”にちょっぴり減入ってみたり。
日本語を使わない国で生まれてしまった私の二人の子供が、いつか私の教えに日本語で私の心の文字を読んでくれたら……そんなことが動機の歌集だったけれど、四ヵ国語を使いわけ、世界の何処をも遠いとも、困るとも思わずに行ってしまうようになった子達が、時々は私を振り返ってくれたら……なんてことに目的が変更されそうな此の頃。
スイス留学中の由野に送った一冊は、「寮の同じ部屋の日本人の友達が、お母さんの本読んで、ひっくり返って笑ってる。どうしても一冊欲しいって言ってるから、もう一冊送って! 由野はもう読んじゃったから次の本をはやく作ってね」という報告。
まず、高校生が、わけ知らぬ、価値が定まったわけでもない人の短歌の本を読もうとするということが私には不思議な気がしているうえに、“マンガ”でもあるまいに笑いころげるとは! 面白い反応。若い人って計り知れない。
アルゼンチンのセリーナからは、「読めないけれど、何度も何度も開いては見ていますよ。私の本棚の一番大切な一冊」と手紙が届いた。アルゼンチンに辿り着き、セリーナと知り合っていった日々のことが、私の身体をかけ巡る。
何事からもあまりに遠く、ポツンと一人、涙ばかり流していたけれど、涙は勝手に流れるにまかせ、「もう親の光は届かないんだから、仕事ということをしなくてはいけない」と気付き、私の出来ることといえば図案を描くことだけ。自分の図案が、どんな仕事に結び付いてゆくのかわからないまま、自作を抱えて幾つかの画廊へ行った。その中の一つにセリーナの画廊があり、「気に入ったから個展をする」とセリーナがその場で決定し、たちまち実行に移されてゆく中、それでも「当人としては“こうありたい”」という意見を言っただけなのに、大変な名家、知る限りの人を支配してきた女王のようなセリーナが、「自分に逆らった日本人がいた」と変なことで、彼女の心にコトンと私がおっこちた。
もう一人のアルゼンチンの友は、日本語を習い始めてしまった。私の本を読んでくださる為に、ですって。私の方が遅れている。自分の歌といえども、スペイン語に訳そうという発想はなかったし、また訳せないもの。アルゼンチンに着いてから、初めの歌が出来るまでに十年のブランクがあることを指摘してくださった日本からの手紙も……。
ゼロからの出発。地上に花が咲くことも夜空に星がでることも、みんな忘れ果てて、ひたすら基本的人間の生活に辿りつくための戦いの日々。そっとオブラートにでも包んでおきたい十年間。
「さっき開いた所に『安々と虹を幾つも作る土地カリフォルニアで虹を追いつつ』っていうのあったけど、これいいね、ずっとずっと虹を追っていようね!そのうちにみんな、読むから」とは玉由。
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