アルゼンチンつれづれ(150) 1991年05月号
台湾・スペイン結婚式
「結婚式には、きっと行くからね」と台湾事務所の青年と約束していた。
不本意であるとはいえ、世は戦争中だったから「約束果たせない」と半ばあきらめていたのに……「終結」というが響いてきた。
「じゃ行ける」「行こう」と決めたのが結婚式の二日前。すぐ台湾のビザを取りに在ロスアンゼルス中華民国領事館へ行く。まだ移動をひかえている人が多い時期だったから、飛行機の席もなんなく予約出来た。
「中国式結婚式って、どんなだろう」「参列する人達の衣服は?」「台北の気侯は?」中国語で「おめでとう」くらい言えるように“中国語入門”を携え、たちまち飛行機の中。「まさか、我が事務所の青年が結婚するからと台湾中が花火をあげる訳ではないでしょう」とは思いつつ、幾多はじける花火を見下ろし、花火と同じ位置となり、そして台北に着陸。
不思議な予期せぬ出来事に心踊らせつつ、中国のお正月に続くランタン祭りという日なのでした。
台湾式のお嫁さんを見たかったけれど、時代はウェディングドレス。お色直しのドレスの着替えも三回ほど。でも台湾で一番親しい人の弾む様子に心がなごむ。台湾の人達ばかり。台湾語の中に、日本人は東京事務所の青年と私だけ。日本語が話せる台湾の人に助けられ、次から次から十何種類も出てくる中国料理の説明を聞き、質問をし。
だいたい私は妙な質問をするらしい。「私の質問わかってもらえてない!」という辺りの返事をもらいつつ、想像を逞くし、日本との共通の喜びの表現にふれたり、初めて見、初めて味わった幾多の味は、とてもうれしいことだったけれど、何にも増して大きかったことは、「自分達のために、わざわざアメリカから飛行機に十二時間も乗って来てくれた!」と大感激してくれたことだった。「良い仕事をするよ。仕事以外のことでも何でも出来る」って。そして感激ついでに、新婚旅行に私を連れて行くと言いだし、お断りするのに骨が折れた。
うれしさついでに飛行機を乗り継ぎ、スペイン事務所の営業担当の青年の結婚式にとマドリッドに着いた。いくら飛行機に乗り慣れているとはいえ、着いた日の夜の結婚式は、立っていれば斜めになっていってしまい、坐ればコトンと眠ってしまいそうだったけれど、次の日の日付けになってゆくスペイン式時間帯をのりきった。
教会でのセレモニーは、我が事務所の全員がタキシードでとても可愛らしい。主役の青年も、スペイン中で一番美形だと私は思う。こんなこと関係なかったかな。
教会の後は、スペイン式カナッペのカクテル、テーブルに着いてのディナーと続いたけれど、ウェディングドレスを着替えるということはなかった。
初めは、「何故ここに日本人が?」との視線があちこちからだったけれど、忽ち新しい人達とも知り合ってゆき、スペイン語の生活の中にもう二十五年も過ごしていることをあらためて思う。
新しい国に仕事を始め、信頼出来るスタッフが出来、世界に争いのない中間が増えてゆくのがうれしい。
以前、結婚式に出席したブラジルの青年の子供達の成長してゆく足型がいつも私のハンドバッグに入っている。靴を買うため。アルゼンチンの幼子には、ディズニー用品がいいかな。各国事務所の女の子達には……。我が子等にやっと要らなくなった子供用品や、自分には買わない品々もスーツケースに詰め、人種を越えた人間と人間の触れ合いに、私は飛行機に乗り続けてゆくでしょう。
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