アルゼンチンつれづれ(151) 1991年06月号

由野のレマンカレッジ

 小学校は、アルゼンチンでスペイン語を。中学は、アルゼンチン生れといっても、日本人の血なのだから、私と同じ心も言葉も生活も、と日本で。高校は、世界語英語をアメリカで。大学は、ヨーロッパも知るべく、ヨーロッパのいずれかの国で。
 私の気まぐれ子育てのパイオニアとして、由野が素直にスイスを選んだ。
 生まれた時から、世界をあちこち連れ歩き、言葉も四ヵ国語が自由になっていた由野に安心しきって、新しい学校へ行く由野を送ってはゆかなかった。
 「スイスは、安全で小さな国だから、飛行場からタクシーに乗って、学校の名前を言えば連れていってくれるよ」と私が言いだしたら「もうそうするしか仕方がない」と悟っている由野は、自分のスーツケースを満たし、一人で飛行機に乗っていった。
 「着いたら、どんな所か知らせてね」とLAで送った私に、「世界中から生徒が集まってきてて、いっぱい友達出来た」「英語がうまくない日本の子達を助けるのに、ジャパニーズイングリッシュにしてあげると皆意味がわかるんだよ」「楽しくて、楽しくて」
 一人で考え、一人で実行するという、生まれて初めて自分自身になれた由野の溌剌とした声が、週に一度はきちんと電話されてきた。
「由野の居る所を見に来て!」「スイスを案内してあげる」「スイスは物価高で、自分では買えないから、由野の洋服買いに来て」「そのうちにはね」といいつつ、なかなかおみこしあがらなかったけれど、スペイン事務所まで行けば、スイスは近い。
 スペインから、由野に「今から行くから」と電話したら、あきらめきっていた由野が、「まさか!」とびっくりした。そのびっくりしように、こちらもびっくりした。「あんなに変テコリンに育てても、やっぱり普通に親みたいなこともしてほしいんだ」と。
 スイスに降り立つと、他の花々に先がけて連翹が今日を盛りとあざやかに黄色かった。心憎いまでに、きれいに磨きあげられた風景の中に、「法律でもあるのかしら」と思われる程、どの家々の庭にも連翹が咲き、連翹の道を通って、春風に波立つレマン湖畔、由野の学校に着いた。
 イースターの二週間にわたる休日が始まっており、ほとんどの寮生が飛行機に乗って自国へ帰ってゆき、飛行機待ちの生徒がほんの少し顔をのぞかせるだけ。寮に「誰某が、どの飛行機で、何国へ帰る」と掲示してあったのがユニークだった。
 由野がちょっとテレつつ現れ、彼女の部屋へ案内してくれた。私には決して見せないような一面も、彼女の部屋から感じられ、大きくなったんだ。
 「お母さん、これ何の木だろう。少しずつ芽が大きくなってくるのを楽しみにしているんだけれど……」「ユリの木みたい」
 由野の窓の手がとどく所に。
 小さかった玉由が、由野が、人種での異和感に涙を流したアルゼンチンでの時。無力で弱かった由野に、体操のアルゼンチンチャンピオンを毟り取ったみたいなこと。日本に住めば大丈夫と思ったら、日本の子供達から外人扱いされて、日本が嫌になってしまったり。「アメリカで、やっと自分の居場所を見つけたの」としみじみ語られたこと。
 私の気まぐれ子育てが、こんなに子供達に物思わせ……その責任感で私にも重かった日々。
 「由野、よかったね。こんなに大きく世界に育って……」。これからだって、いろいろあるはずだけれど「もう私より強くなった子供達に委せることにするね」

 
 

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