アルゼンチンつれづれ(156) 1991年11月号

アルゼンチンの私の会社

 二十五年も前のことになってしまった。何知ることも、何知ろうとすることもなく、ひたすら単純に明るく、アルゼンチンヘ移り住むということをやってのけた。
 移動する四十五日間の船中の未知への事始めも、まだ不安という言葉を知らなかった。辿り着いた国で、一緒に船旅をしてきた大した引越し荷物を持って、納まるべく家の無いことを知った。私の“日本語だけ”を、誰も理解してくれないということも知った。そして、矢継ぎ早に、日本から一番遠い国で、ゼロから出発するのに必要なことが“わんさかわんさか”私に押し寄せてくることをも。 “勝手に日本から出てきたんだから”“自分が仕出かしたことへの後始末をする”という常識だけは持ち合わせていたのが情けない。“しなければならないことをする”といういたって簡単なことも、“しなければならないことが出来ない”。ああしても、こうしても、出来はしない苛立たしさ、絶望……それでも、しなければと思う義務感と……そのうえ、どばっと重い、ひとりぽっち感。
「コンデンサという物を作らなければいけない」という事実が出現した時、その物に対する知識……何に使われるものであるか、必要性、将来性……とにかく、いつもの無知に輪をかけた無知のまま、かろうじて存在したノウハウだけを頼りに、それを作った。販売態勢を調えていった。
 本を読み、日本へ帰って実習もし、純度を要する製品の、純度を守った一人前のコンデンサ作りとなってゆくのを助けてくれた現地のスタッフ達がいた。独占企業の時代、数社競合の時も、アルゼンチンの何社と上位に数えられる輸出入製造の時期もあった。
 南米の、日々定まらない政策に作用され、“国の方針じゃどうしようもない”と製造業が痛めつけられた時は多く、一介の電気部品の運命は、いたって不安定。関連製品との併用、アルゼンチン以外の国への進出、と工夫を重ね、健気に続けてきたつもりも、他国よりの援助でもって、かろうじて維持することとなる。それでも、私達人生初めての仕事、私の二人の子供が生まれた国、何とか明るく思いたい。切ないばかりのセンチメンタルだけの存在となってしまった会社、今、続いている少しのことを除いて“新しく何かを”という勇気を、アルゼンチン国は与えてはくれない。気丈に思ってみても、もう身に余る。 子供達の教育の場を、アルゼンチンだけにしたくなかった私の独り善がりで、子供達を連れてアルゼンチン国を出て来てしまって、そして、人にまかせて不安定な会社を続けてゆけるわけがない。会社に対する反省は、いくらでもあるけれど、私の意のままに育った子供達を思うと、“これで良かったのだ”と思う。
こんな形で、私の二十五年間は終ってしまったけれど、子供達のこれからは無限大。私も、二十五年間のアルゼンチンとの関わり合いを経験した一人の人間として、自分自身を生きる時がやってきたのだと思う。
アルゼンチンを始めて以来のスタッフ達に“さようなら”をした。「ごめんなさい。私の至らなさを。勝手すぎることだけれど、これからは、雇用関係ではなく、アルゼンチンで出逢えた友人として付き合ってください」と。
アルゼンチンに着いた時、自分の意志に反して、どうしようもなかった未知への涙が止めどなかったけれど、終りにも、限りない涙が流れる。まだ止まらない。

 
 

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