アルゼンチンつれづれ(158) 1992年新年号

アルゼンチン代表

 昔は、アルゼンチンから日本まで一気に飛んだのだから、その所要時間、疲労度は、大変なものだった。手足はパンパンに腫れ、爪先の表皮が切れて血がにじんできたり……。 その頃に比べると、今は、どこへ行くのにもロサンゼルス発だから、南米、アジア、ヨーロッパのわが家の行動範囲の丁度真ん中に当り、楽になったとはいえ、アルゼンチンヘ行くのは、何度試みても“遠い”としか言いようがない。
 いつも「もう二度といや!」と思うのに、二度どころではない、次から次から、飛行機に乗っての移動のしっぱなし。
 いよいよまぢかになった、玉由のオリンピックの最終手続きのため、玉由と私、またまたアルゼンチン行き。
 パスポートのこと。アルゼンチンチームの一員としてのユニフォームのサイズのこと。選手村に入る手続き。何時、何処でチームと合流するか……等々。
アルゼンチンオリンピック委員の人達、会長、オリンピックチームの選手達にと、沢山の初対面、出逢い、親切。
この国で、私の子供達が生まれ、育ち、他国で学び、そして、生まれた国の何かの役にたちたい。たたせたい。やっと、やっと辿り着いたスタート点。
伝え聞いた「ラ・プレンサ」という由緒ある新聞杜が、玉由の記事を書いた。
 玉由のガンバリの日々が、読む人に感銘を与えたらしい。
 今、やっと、日本の血がアルゼンチンを代表することを、ほほえましく、感動してくれて、スケートリンクを探し求めての日々に、「スケートリンクの敷地と資金を提供するから、アルゼンチンにも国際級のリンクを作ってください」という富豪からの電話もあり、実際にすぐ私に迎えの車が来て、「ここはどうですか」と、建物や敷地を見て廻るはめになったのです。
 二十年間打ち込んでこなかったら、まだ誰も気が付かず、何も始まらなかっただろう国で、今、私はスケートのことの相談を受けている。アルゼンチンのオリンピックチームは、国の財政困難から、ほとんどオリンピックに行く費用の援助がなく、全員が父兄に頼っている。そこで、私は、日本国大使館や、アルゼンチンにある日本企業に、アルゼンチン・オリンピックチームをサポートしてもらえないだろうか、という話をする係をしたのですが、“祖国?のためにがんばってください”という言葉と“いろいろ言ってくるのを、いちいち相手にしていたらきりがないから、全部ことわることにしている”という言葉を聞かされただけでした。
 アルゼンチン人の反応、日本人の反応、物思った。
 この出来事を、玉由のひとり立ちのバネにしてほしく、私が、アルゼンチンヘ行くことになった経緯、その国で、玉由と由野が生まれ、生まれた国を代表するまでの諸々…。
 日本から弾き出てしまって、それでも日本にしがみついた私の二十五年間……を一冊の本にした。一九九二年一月末には、本屋さんで発売される。
 表紙は、アルゼンチンで、様々な出来事、交互してゆく思いの中で、咲いては散っていったハカランダを描いた。

 
 

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