アルゼンチンつれづれ(159) 1992年02月号

アルゼンチン代表A

 「気分の良い時にはね、こんなにも一つの目的に向って育ててきてくれたことをありがたいと思うよ。だけど、気分の悪い時、苛立っている時は、余分なことをしてくれたものだ、そっと普通に育ててくれればよかったのに……って」
 このごろ、とても玉由が言う、私も思い惑う。こんな無茶なことを考えつかなかったら、わが家は、平凡な穏やかさの中、もっと満たされて生きてこられたことに間違いはない。選りに選って、苦労を選ぶ。
玉由と私。地球規模の出来事に、追いつきかねる心を持って、今もまだ動揺し続けている。
両親好みの優等生の兄弟達の中、どれを取ってみても、他の兄弟のどこにも追いつかない、期待されるという要素がなかった私が、「やっぱり期待された方がいい」との結論に基づいて、自分の子供達については、せめて私だけでも大いに期待をしてやりたかった。 たかだか私の子供なのだから、そんなにうまく行くわけはない……という冷たさは持っての上のことだけれど。
そして、「ああした方がいいかな」「こうした方がいいかな」のはじまり。
アルゼンチンで小学生を始めるに当たっても、全日制、半日制、寄宿制と選べる学校の種類の中で、一日中学校に居たのでは、私流に教育出来ない、とばかりに、半日制の学校を選び、午前中の学校の後、午後は家庭教師での語学、音感教育を。もっともっと! スケート、クラシックバレー、体操に、と連れ回った。その上、世界に育つには、食事のマナーが、行儀作法が……と、持ち合わせのない自分を顧みるゆとりもなく叱咤し続けた。 米子母から、「由利、いいかげんにしなさい」と忠告を受け、アルゼンチンでの私の母セリーナからも「子供達を殺す気?」と諌められた。それでも怯まず……。
由野は、あきらめきってか、そういうものと思い込んでか、私の言うなりになってきたけれど、玉由は、物心つくと、私に低抗、反抗限りなし。私が嫌がるだろうこと、心配するだろうこと、困ること、全てしてくれた。 玉由と私の葛藤の、それでも親だから、と玉由が一目置いてくれるすきをねらって、私の意のままを貫き通した。
その上、玉由には、外国に対してネイティブでない私と、身も心も弱かった由野を庇って、すべての面で立ち塞がって私達を守る、という役を、知らず知らずにさせてきた。
玉由がいなかったら、私は、外国で生きてこられなかったことはよくわかる。私の存在が、玉由に与えたプレッシャーの大きさを、今、改めて思う。
そして、まだまだ終っていない。
「オリンピックなんて、あんなに大きくて大ぜいの人の前に出たことない。何も出来なくなっちゃったら、どうすればいいのよ!
自分の恥だけなら我慢出来るけど……自分だけじゃないものがいっぱい取り巻いていて……」
「アルゼンチンに、フィギュアスケートのオリンピック初参加という道を開いたんだから、もう気楽になって、参加することを楽しんでこようよ」という呑気そうな私の言葉に玉由が荒れる。
 「死なない限り、行かなければならない」と玉由が言う日付けが、一日一日と近付いてくる。

 
 

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