アルゼンチンつれづれ(168) 1992年11月号

由野ボストン大学

 ロサンゼルス行きと何度も日付けを決めてはみたけれど、その都度キャンセルした。飛行機に乗れない。外国へも行かれない。何もかも拒絶してしまうような……。あんなに長い間何でもなくこなしてこられたことに、今ドカンと行き当っている。
 日本へ来たきりもう四ヵ月近く。ちょっと壊れてしまっている私のところへ、ボストンでの大学生活が順調に始まったことを、由野が国際電話してくる。
 「寮の部屋が、スイスの時と比べるととても大きいよ。さすがアメリカだね。ルームメイトは偶然日本の子なの。だから部屋の中は気楽に日本というわけ」 「もちろんコンピューターが主だけれど、今度新しく中国語をとることにした。中国語の友達が大勢いるから、きっとすぐ話せるようになると思う」
 「フランス語は、スイスに行って良かった。アメリカで習うフランス語は、やっぱり外国人が話すフランス語ってことがわかるの」 「気が向いたら、ボストンに来てね」
 私の知らない所、知らない事、由野にとっても未知のはずの所で、何のためらいもなく始められ、かつ楽しんでしまうように育ってくれたことに感謝するばかり。
 ロサンゼルスの玉由からは、「今、やっと大学を始めてみて、勉強をするのは精神的にとても落着けることだってわかった。たちまちストレートAもらっちやった。自分のぺースで勉強したり、自分がこんな風になりたいって思うように自分を作っているところなの。一人で考え、一人で実行するのが気に入ったよ。お母さんも自分の生きたいとおりにするといいよ。もう玉由は大丈夫だから」
 正常な常識で計れぱ、私の二人の子供が完全に、自分で考え、自分で行動出来るようになった……とは断言できはしない。このあぶなっかしい年齢を、彼女達にまかせてしまう無謀を思うけれど、彼女等を、もう私の小さな範囲にとどめておくわけにはいかない。私の生きてきた心、私の子供として生まれてきたいきさつは、しっかり話したつもりだし、「私」については、もう話し終えたような気がする。これからは、教える、育てる……のではなく、一番身近な人間同士として付き合ってゆけばいい。
 一人東京で自分に籠り、そうかといって何もしないでいるわけにもゆかないから、外国が大変遠い存在だった頃、外国へ出かけていこうと思いたった辺りから、まったく未開発の私が、外国でどのように生きのびてきたか……などなど文字にしていた。
 「とにかく本にしましょう」と言ってくださる出版社に巡り合い、締切り日など作ってくださったから、作業はどんどんはかどり、「いつか」と思っていた「あとがき」らしきも書く段取りとなっていった。
 装丁には自分の水彩画を、中扉にも、アルゼンチン、アメリカ、日本でこだわり続けた、一番シンプルな表現方法での鉛筆描き裸婦が入り、私尽しの、まったく私らしい随筆集『地球にて』がもうすぐ出来上がる。
 これで、自分のことを書くということが終りになった。子供達がすすめてくれている「お母さんらしい生き方」に行きつくために、次は何をしようか……。
 ちょっと方向を変えた文字を書いていきたいとも思っている。

 
 

Copyright (C)2002 Yuri Imaizumi All Rights Reserved. このページに掲載されている短歌・絵画の無断掲載を禁じます。