アルゼンチンつれづれ(178) 1993年09月号
人種のことA
ヒョンなことからアルゼンチンで仕事を始めてしまった。試行錯誤の時は長かったけれど、アルゼンチンが順調にゆくと、目標は南米全土にと膨らんだ。
そこで、まずブラジルから。サンパウロに事務所を作り、ブラジルのスタッフを得て、しばらく後には、サンパウロは、我が家の大きな仕事の場となっていた。
アルゼンチンとブラジルとを行ったり来たりという飛行生活の始まり。
仕事ということを通しての付き合いばかりであったけれど、サンパウロの夥しい数の人々、ありとあらゆる人種の集合は、もう人々はそのことに慣れきっているようで、人種のことについては、リラックスしていられた。 その上、日本からのブラジル移住の歴史は古く、私達以前の日本の人達の地道な努力によって、ブラジル国を左右するほどにまで日本の血は尊敬されていたから、私も便乗して日本に甘えていられた。
現地で、日本の昔ながらに作られた日本食は、本当に心温まった。日本より立派に育てあげられた日本の野菜も果物も、市場に行けば、熱帯のブラジルの品々と一緒に並んでいて、一種独得なムードを醸し、私は、ブラジルが大好きな国となった。
世界的な傾向だけれど、だんだん治安が悪くなり、警戒心の不足する日本人が狙われやすく、「あんなに良い国が」といいつつも、恐ろしさに震えることとなる。
サンパウロの普通の人々は、各々の住まいを鉄格子で囲い、自ら進んで檻の中に入り、強盗殺人侯補者が闊歩するに備える。
たちまち、私は恐ろしさへの落伍者となってしまった。
アメリカという国については、理想を掲げて作りあげた国であって、もちろん人種の間題も、そんなこと心得たうえでのことで、理想通りにいっているような気がしていた。
そんな理想の国に子供達を学ばせたかったし、私も一度生活をしてみたかった。
アメリカに着いて、百パーセントの信頼感でもって引越荷物を解いた時、「この人は、私がここにいない方が良いと思っている」という視線を感じてしまった。心が冷えた。
日本人とは、地球の上に生まれた瞬間に、人種の上でハンディを持ってしまっているということを知らされた。
今まで、ほとんど気づかずに生きてこられて、自分自身はもう何とでも良いけれど、これから世界に生きてゆこうという私の子供達が不憫でならなかった。
世界の経済大国といわれる日本の経済力を持って、アメリカの会社と取引をしている友人が、やはり心を冷やした話をしてくれた。「大変大きなお金が動く商談だったから、アメリカ側は、何から何まで最高で持てなしてくれた。私邸に招待を受け、美しい家、美しい会話、美しくにこやかな婦人。こんな心を込めての接待に有頂天になっていたけれど、見てしまったんだ。食事の後に、日本人の使った物など汚らわしいとばかりに、立派な器を割り捨てている現場を……」
アメリカは一番でなければならない。そのためには、どんなことをしてでも日本を抑えつけるだろう。決して同じ立場の人間だなんて思いたくはないのだから……。
アメリカを住みこなしている玉由に、そのことについてそっと聞いてみたら、「いやな思いをしたことないよ。この次生まれる時もまた日本人がいいよ」とさりげなく言っておりました。
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