アルゼンチンつれづれ(189) 1994年08月号

太田垣蓮月

 二十八年たってしまったアルゼンチン生活から、日本へ帰り住んで、私なりの“思いどおり”をしている。
 日本の高度成長、隣近所、身内のなかで生活を積み重ねてきた同年代の人達とは、かなり価値観がずれてしまって、自分でも、「私、こんなことで満足しているのは、単純でささやかすぎるのではないか」と思ってしまうけれど。
 私の満足している現在の生活とは、アルゼンチンでの思いが甦るカーニバルの時に使う様々な動物の面が壁いっぱいにかけてある。 アマゾンで大至急育ってしまったフカフカの木をくりぬいて作った動物玩具達が、床狭しと這っていて、掃除の時など“ちょっと退いてね”と移動してもらうのに忙しいこと。 アルゼンチンの友達の絵、日本の友人の絵、子供達の作品、私の描きかけだって。
 幸福の木は勢って天井に届き、テーブル椰子は、せっせと新しい葉を増やす。来年また花を咲かせる植木鉢が幾つか。待ちどおしいこと。
 「いつも家に花を絶やさないでね」との母の遺言を忠実に守って、その時々の花は部屋に満ち、花の香りがただよう。
 時差の都合で夜中によく電話がかかる。畳に敷いた蒲団から起き上がるのが大変だったのだけれど、やっとソファベッドが買えて、もう南米ボランティアも大丈夫。
 ひとりで酒盛りをする暇がないほど友人達が訪ねてくれて、肴作りに張り合いがあること。日本風に、外国風にと…。
 こんな暮し方、すっかり良いのだけれど、私自身がしなければいけないことは“アスタ・マニャーナ”の南米式、“明日、明日すればいい”と、いともたやすく延ばしてゆき、この分では生きているうちには始めないだろう、と自分で思ってしまうほどだったのに、この日頃、母の法名蓮月と同じ名前の太田垣蓮月尼のことを読んでみようという気になった。
 非常に美しい人で、歌人であること。京都に住み、岡崎土でもって埴細工をしていたと……。
同時代、同地域に貫名海屋が住んでいたことに思い当った。名の知れた同士、縁があったに違いない。
 外国で生れ、外国で学んでいる私の子供達の日本への思いのルーツを明確にしてやりたいと、持ってはいたけれど、なかなか開かなかった分厚い貫名海屋の本を読むコーナーも部屋に出来、なんとかこの二人を同一場面に置けないものか……そして見つけた。
 「山里は松のこゑのみききなれて風ふかぬ日は錆びしかりけり 蓮月
 書家として一世に名をうたわれた貫名海屋が微醺を帯びると、つねに低吟したというこの歌は……」(太田垣蓮月、杉本秀太郎著)という記述を。
 こんなことに出遇った話を、お酒の席でポソポソしたら、蓮月尼作の蓮の葉盃を持っているという友人がいて、たちまちプレゼントして下さった。
 “骨董品で、飾っておくものだ”と思ったけれど、我慢出来なくなって、日本のお酒を注いで飲んでみた。くちびるにやさしく、蓮月尼の手のぬくもりが伝わってくるようで、彼女を身近に思ってしまった。
「このロマンに出遇うために私は日本に帰ってきたんだ」と思う。きっと何か始められる。

 
 

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